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Nさんへ。
いよいよ、これが最後のお便りになるかと思うと、いささか感傷的な気分になってペンを執っています。
Nさんがとっくに見透かされていたように、じっさいこの手紙は、Nさんのお名前を借りた「仮想の画家」にむかって私が書きつづけてきたものでした。私が日頃から考えていること、思っていること、人生観、芸術観、歴史観、はては自分の出自や半生に対するウラミツラミ、養父母や生父母への個人的な感情、それらをぜんぶうけとめてくれる理想の画家として、私はNさんをえらんだのです。以前からNさんの描く作品世界、画家としての生き方に惹かれていた私は、そのNさんに自分が抱いている「仮想の画家」の傀儡になってもらおうと思ったのでした。
Nさんとの文通によって、私はずいぶん救われました。
遠い信州上田の山里の美術館で暮らしている私の、日々悶々とかかえている不満や疑問の数々が、人気画家であるNさんに手紙を出すことで見事に雲散霧消し、何だか心身までが軽くなったような気がしたのです。失礼ながら、Nさんとの文通は私の絶好のストレス解消、仕事に疲れた体を瞬時にリフレッシュしてくれる役割を果たしたといってもいいでしょう。
その後T君が知らせてくれたNさんの言葉にも励まされました。
Nさんは前回の私の手紙をうけとったあと、T君に
「クボシマさんもぼくも、そろそろ自分の再生にむかって歩き出そうとしているのかもしれないな」
そんな、きわめて示唆にとんだ感想をもらされていたそうですね。
そう、「再生」──「ふたたび生まれ変わること」「もう一ど生き直すこと」。
私はNさんとの会話を重ねるたび、これまでの自分の半生をもう一どみつめ直し、あらためてそこから「新しい自分」を築きあげようという気持ちになってきています。「信濃デッサン館」三十三年、「無言館」十四年、ここ信州上田で経験した美術館経営の日々を卒業して、今こそ私は「新しい自分」と出会いたい、「もう一人の自分」と出会いたい、そう願うようになったのです。
つい先日、私は大地震の被災地である宮城県石巻を訪れてきたのですが、その目を覆うばかりのガレキの山の惨状、いまだ数千人の人々が肩を寄せ合っている避難所の状況を目のあたりにして、ますます自分を「再生」させようという気持ちになりました。何十年、何百年と積み重ねられてきた人間の営みが、自然の猛威によって一瞬のうちに奪われてしまったせつなさ、やるせなさ。それは、これまで安易に「人間」を主役にしてきた私の人生観、世界観、死生観を根底からゆさぶるにじゅうぶんなものでした。私は人っ子一人通らぬ石巻のガレキの町をあるきながら、「これからの自分に何ができるのか」「どう生きてゆけばよいのか」という言葉を心のなかで何どもくりかえしていたのです。
前にも少しふれたと思うのですが、石巻は私が戦時中に疎開していた土地でした。戦争が激しくなった昭和十九年春から終戦直後の昭和二十年九月にかけて、つまり私は三歳から四歳にかけての約一年半をここ石巻ですごしたのです。養父と親しかった洋服仕立て職人のTさんの故郷が石巻だったので、Tさんは私たち親子をさそってこの町に連れてきてくれたのでした。
そして、その石巻に疎開しているあいだに、東京の山の手一帯が、大空襲によって草の根一本生えない焼け野原となり、私たち親子の苦難の道がはじまったという経緯もまた、これまでにのべてきた通りです。
被災地石巻のガレキ風景、そして六十六年前の終戦直後の世田谷明大前の焼け跡風景──重なり合う二つの風景が、私の心に自らの「再生」をうながすとなったといったら不謹慎でしょうか。
そうなのです。
かつての「戦争」が戦後の私たち日本人を見事に「再生」させたのと同じように、今回の震災もまた、私たちに「生まれ変わる」力をあたえたにちがいないのです。私たちはこの荒涼たるガレキ風景のなかから、将来にむかっての一歩を踏み出さなければなりません。これまので経済繁栄や文明発展に依存しきった生活から脱却し、本当の人間らしい生き方、人間たるにふさわしい生き方をもとめて歩み出さなければなりません。それを果たしたときこそが、私たちが真に今回の災害をのりこえたときであると信じるのです。
石巻の地に立ったとき、私は惨憺たるガレキ荒野のなかから、Nさんの描くあの幻想的な、無数の蝶、小鳥、妖精、愛くるしい小動物たちが、晴れやかに飛び立ってゆくのをみました。
はるか遠くの空へ、雄々しく飛び立つたくさんの「生きもの」たち。
新しい「生命たち」。
Nさん、そろそろお別れのときがきたようです。おたがい、のこされた「再生」の人生を精いっぱい生きぬきましょう。
一年間、ありがとうございました。
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