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Nさんへ。
「雄魂殿」──それは遠くから眺めただけでも、いかにも出征兵士を送るにふさわしいかなふんいきをたたえた建物でした。
「今は何に使われているのですか?」
と私がききますと
「よくわかりませんが、たぶん村の公民館か集会場にでもなっているんじゃないかと思います。近所の人たちの活け花やお茶を習うサークル活動の場所になっているともききました」
「なるほど」
戦争中に決死の青年兵士たちを戦場に送り出した「御殿」が、今では村人が余暇をすごすサロンになっているというのは興味ぶかい話でした。
「それにしても、雄魂殿とは勇ましい名前ですね」
私がいいますと
「ええ、芳一さんもきっと、当時はそんな気持ちで戦場に発っていったのかもしれませんね」
百合子さんもちょっとさみしそうにかれました。
戦没画学生荒関芳一の墓参りをすませた帰り、百合子さんにお願いして、その「雄魂殿」に立ち寄ることにしたのはいうまでもありません。せっかく荒関芳一の眠る墓に詣でたのですから、やはり芳一が出征した「雄魂殿」もこの眼で確かめておきたいと思ったのです。と同時に、私はこの青森県五所川原という本州北端の小さな村に、今も息づいている一つの「戦跡」を見学しておきたいという欲求に駆られたのでした。
五所川原市から西へ約二十分ほど行った柏村という村落の一かくに荒関芳一の墓があり、その墓地から畑みちをタクシイでもどってきますと、やがて市道が途切れて小さな部落をぬうような細道に入ります。くるときに車窓からみた「雄魂殿」は、村の外れの小高い丘の上にあったような気がしたのですが、近づいてみると、そこいら一帯は何十軒かの家がひっそりと肩を寄せ合っている村落で、その突きあたりに樹木にかこまれた「雄魂殿」が建っているのでした。
そして……「雄魂殿」は予想した以上になかなかの建物でした。
ふうな意匠の扉の上には、大きな行書体の文字で「雄魂殿」と彫りこまれた板がかかげられ、一歩中に入ると見事なの土間にむかえられます。高い天井いっぱいまで組み上げられた何本もの太い柱と、そこを横切る重々しい梁。柱は長い歳月をへて黒々とひかり、足もとには約二十畳もあろうかという空間がひろがり、やはり黒い栗の板と思われるぶ厚い床材が敷きつめられています。また、四方に明かり取りをかねた格子窓があって、その桟にも黒光りする古木が使われ、一目みて私のようなシロウトの眼にも、建物が相当腕のある大工棟梁たちの手でつくられたことがわかるのです。
ちょうど私たちが「雄魂殿」を訪れたときは、広間で村人たちの日本舞踊の稽古が行われていたようで、五、六人の着物姿の初老の男女が、広間の真ん中のテーブルをかこんでお茶をのんでいました。そののんびりとくつろいでいる姿が、何だか威厳にみちた建物とはひどくアンバランスな感じにみえます。
「のどかですねぇ、戦争中、ここから兵隊さんが出征していっただなんてとても思えない」
私が嘆息するようにいいますと
「そうですねぇ……でも、やっぱり平和はいいですねぇ。この御殿をつくった人たちも、今のこの風景をみたらホッとしているんじゃないでしょうか」
百合子さんはちょっぴり「雄魂殿」を口調でいって
「とにかく、あれから六十何年も経っているわけですから」
感慨ぶかそうに御殿の天井の黒い梁を見上げました。
たしかに、百合子さんのいう通りでした。
遠い六十余年前のある日、画学生荒関芳一は、「雄魂殿」にあつまった村人たちの「天皇陛下万歳」の声、打ちふられる日の丸の小旗に送られて戦地にむかったのです。画家になる夢をすて、家族や友と別れ、ただただ時代の宿命に翻弄された若き画学生。それはまさしく「雄魂」であることを強いられ、愛する祖国を守る責務を背負わされた一人の青年の、すべてを投げすてた死出の旅立ちだったといえるでしょう。
そして、かれらの戦死の上に築かれた「平和」の姿が、今同じ「雄魂殿」で日本舞踊や活け花に興じる村人たちののどかな姿であるといえましょうか。
と、そのとき私は
「ところで、この建物はだれの手でつくられたんでしょうね」
ずっと気にかかっていたことをたずねました。
すると、百合子さんはこうこたえたのです。
「さあ、くわしいことはわかりませんが、お年寄りの話では、当時各村にあった戦勝会という団体がお金をあつめて、五所川原じゅうの大工さんが労働奉仕してつくったときいています」
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