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Nさんへ。
もう少し、長野市長選挙に立候補したTさんのことをお話させてください。
すでにTさんは、今回の選挙に出るにあたってそれまで勤務されていた職場を辞しておられますから(そう、Tさんは文字通り今回の選挙戦に打って出られたのです)、もうちょっとくわしくのべても差しつかえないでしょう。
Tさんは私と出会った約三十年前、米国ニューヨークのホテルの支配人をされていましたが、その後サンフランシスコのリッツ・カールトン・ホテルの開業に携わられ、傘下のいくつかのホテルで修行をつまれたあと、やがて母国日本に進出した支社に赴任、僅か五十歳そこそこの若さでリッツ・カールトン東京支社長という要職を担うまでに成功された人なのでした。Tさんが最近出された本(マーケティングやホテル・ビジネスの参考書として大変人気があるそうです)を読むと、そもそもTさんは信州戸隠の高校に通っていた頃、たまたま卒業旅行で訪れたアメリカのビジネス風土や企業文化に関心をもち、自分の人生を賭けるのはこの国しかない、といった気持ちになられたとのことです。人と人との出会いが一生を決めるといわれるのと同じように、人には自らの人生を決定するようなとの出会いがあるということかもしれません。
ですから、私と出会ったとき、Tさんはまだ米国にきてほんの二、三年頃だったと思います。
その、当時二十代半ばになったかならぬかだったTさんが、あれはたしかニューヨークの六番街にめんした小さなレストランで食事をした帰り道でしたか、私の頭をガツンと叩きのめすような言葉を口にされたことが忘れられないのです。
じつはあの頃は、私自身もまた人生の大きな岐路に立っていました。東京に住む女房子供の反対をおしきって、見も知らない他人の故郷である信州上田市の郊外に「信濃デッサン館」を建設し、身のほどわきまえぬ多額の債務を背負いながら、とにもかくにも美術館経営の第一歩をふみ出した頃でした。何しろ、それまではただの「絵好き」を自認していただけの素人コレクターが、とつぜん一念発起して未経験の私設美術館のの席におさまったのです。朝から晩まで一人で受付の椅子にすわり、一日たった二、三人しかこない入館者を待つ日々。開館当初こそ、珍しさも手伝って地元の人々は何くれとなく手を貸してくれていたのですが、やがてそうした人たちも潮がひくように去ってゆきました。Tさんと会った頃は、私が異郷における「」の悲哀をしみじみとかみしめていた時期だったといえるかもしれません。
あの夜、多少酔っていた私は、かたわらを歩くTさんにむかって、
「信州の人たちは冷たいんですよ。時々とても心細くなって、もうこの仕事をやめてしまおうかと思うことがあるんです」
そんなふうにいいました。
自分の美術館はまだまだ地元の人々に理解されていない。かれらは苦労して集めてきた自分のコレクションを見向きもしようとしない。美術館をたんなる金儲け商売のようにみている人もいるし、なかには私のプライベートな生活に対して噂を立てたりする人までいる。こんな無理解な環境のなかで館を運営してゆくことはとうていムリなような気がする、などと。
すると、最初のうちTさんは黙って私のよこを歩いていたのですが、六番街の交叉点を渡り終えたとき、ふいに私のほうをふりむいてこういったのです。
「クボシマさん、年ゆかないぼくが先輩のクボシマさんにこんなことをいうのは生意気なんですが……まずあなたが地元の人を信じることが大事なような気がします。人に裏切られるかどうかは、そのあとのことだと思うんです」
そして、Tさんはぽつんと付け足すように、
「ぼく、じつは長野県の戸隠という村のなんですよ」
そういったのでした。
そのつぎにつづけたTさんの言葉が今も忘れられません。
「べつにぼくは自分の郷里だからといって、信州の人々の肩をもつ気はありません。でも、クボシマさんが信州の人は冷たいと、たった一年か二年住んだだけで結論づけるのは少し早いと思うんです。ぼくはクボシマさんのお仕事のことはくわしく知りませんが、田舎の人がクボシマさんの仕事を理解するには、まだまだ時間が必要なのでしょう。そしてクボシマさんにとっても、地元の人々の心を本当に理解するにはもっともっと時間が必要だろうと思うんです。……どうか、もう少し信州の人々を信頼してがんばってみていただけませんか。地元の人々がクボシマさんに対してどんなふうに考えているかわかるのは、それからのことだと思いますから」
マンハッタンの星空の下で、そういった信州青年Tさんの横顔の何とカッコよかったこと! |
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