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Nさんへ。
今朝、美術館の坂道を自動車で登ってきましたら、眼前にせまる独鈷山の樹々が、朱色、黄色、薄緑色にひかって、まるで秋末の紅葉のじゅうたんがパッチワークのようにみえました。今年の夏はかくべつの酷暑だったので、急に冷えこんだ秋ぐちの気温差から、落葉の美しさがおおいに期待されたのですが、例年にくらべると今一つその色彩にはバラツキがあるようです。でも、ここ上田市の西の郊外にひろがる塩田盆地は、今や紅葉真っ盛りのシーズンをむかえているといっていいのでしょう。
ことに「信濃デッサン館」の前庭からのぞむ独鈷山の眺めは最高で、欅並木の参道からみえる前山寺の山門や本堂のカヤブキ屋根の周辺が、燃えるような紅葉につつまれている景色は圧巻です。
たまたま私が出勤してきましたら、何人か顔見知りのリピーター来館者の中年女性が待ちうけていて、
「いつも、この季節には東京からお邪魔するんですよ」
といって
「こういうときには、美術館の絵と紅葉を二つ味わえますから」
ちょっぴり得意気な顔をされるのです。
たしかに小生の美術館の来館者のなかには、作品の鑑賞半分、塩田平の四季折々の風景の鑑賞が半分といった人たちが多いようです。わが美術館からは、春には春の、夏には夏の、秋には秋の、そして冬には冬の、それぞれ異なったフェロモンが発散されている、といったところでしょうか。
そして、最近何となく考えるのは、かくいう小生自身もまた、この塩田盆地の自然に心を癒やし、人生の平穏をもとめてやってきた旅人の一人ではないかということです。
もちろん私がここ信州上田に「信濃デッサン館」を建設したのは、愛する詩人画家村山槐多の青春期の放浪先がここであったということがおおいに関係しているのですが、同時にこの土地のもつ自然風土の豊かさ、美しさが、私を一世一代の美術館建設にふみ切らせたといってもいいのです。
そう、わが「信濃デッサン館」は、村山槐多や関根正二、松本峻介といった夭折画家たちの絵の魅力ばかりではなく、東信州塩田平の自然に背を押されて誕生した美術館ということができるでしょう。
人間は自らの心身が疲れたとき、ほとんど本能的に樹々の緑や澄んだ青空をもとめて旅をする生きモノのようです。
私の場合もそうでした。
太平洋戦争開戦三週間前の、昭和十六年の十一月に生まれ、戦中戦後の食糧難期、混乱期のなかで幼少時代をすごし、物心つく頃からは高度経済成長の荒波を一身にうけて生きてきた半生。繁盛した水商売で稼いだ小銭をモトに、槐多や正二たちの遺作の収集に血道をあげ、ついには上田に「信濃デッサン館」までつくるにいたったのは、そうした時代の流れに翻弄された人生のを洗い、心身の疲労を少しでもやわらげたいという欲求からでした。戦後日本の経済繁栄のなかで、何はともあれ結婚して二人の子をもち、人並みの幸せな家庭生活を築きながら、いっぽうで私は、ホトホトそんな自分の半生に疲れ果てていたのです。そのの日々から一刻も早く救われたい、そこから解放されたいという願いが、この信州の山里に美術館を建設するという、イチかバチかの(?)行動につながったのです。
ちょっと気恥ずかしいのですが、小生が一九七九年六月末に「信濃デッサン館」を開館したとき、その記念カタログの巻頭にかかげた自作の詩は、次のようなものでした。
山上の丘
やさし絵たちのに
頬うづめ 耳すませ
己が寂寥をかたらぬか
かわける子らの 水汲むように
野づらをはしる 孤犬のように
かくもはげしき青春に
己が悔悟をかたらぬか
ひとりあるきの某日
ここが家路だときめたのは
自らの嘘をさばく
一滴の生、一羽の鴉をみたからだ
いやはや、これこそ若気の至りというか、今読むと冷や汗が出てくるような血気盛んな詩なのですが、それでもこれが当時三十五歳だった小生の、偽らざる心境の告白だったといえるでしょう。
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