Nさんへ。
日本にいればアメリカ人、アメリカにいれば日本人、終生自らのアイデンティティを見い出せず、文字通り「故郷喪失」の人生をあるいた野田英夫。1939年1月、数年ぶりに里帰りした祖国日本で脳腫瘍にかかり、僅か三十歳と五ケ月の短い生涯をとじた薄命の画家野田英夫。
私がその画家の仕事、いやその画家の境涯がもつ深い陰影に初めて接したのは、私がまだ東京渋谷道玄坂下の「東亜」という服地店につとめていた19歳の頃でした。当時、何となく心満たされずにいた店員生活のなかで、私が唯一の息ぬきにしていたのが趣味の美術館めぐりで、たまたまある休日、ふらりと訪れた竹橋の東京国立近代美術館で出会ったのが野田英夫の「帰路」でした。これは野田英夫が1935年、白人妻ルースとともに帰国したときに二科展に出品した作品で、野田が生前のこした絵のなかでもかなりの大作に入るものでしたが、私はその「帰路」の前に立ったとき、大げさにいえば一種電撃にうたれたような感動をおぼえてその場に立ちすくんだのです。
画家の中央やや右寄りに描かれたハンチング帽の浮浪者ふうな男、おそらくそれは野田英夫自身の姿なのでしょう。だぶだぶのズボン、重たげなあみあげ靴、粗末なジャンバーをまとったその男は、うなだれながら腕をくみ、一人黙々と瓦礫がちらばる道をあるいているのです。男の周りには、大きな花束、樹木、鉄柵、廃屋、仔馬、麦畑……それに風にふくらんでちぎれたカーテンや、転がった椅子などがコラージュされ、茶褐色と濃緑色が微妙に重なり合った画面には、仄かな明るさをたたえたやわらかい光がみちみちている。そして何より印象的だったのは、その男の足もとの瓦礫の片すみから顔をのぞかせている少女の、どう表現していいかわからぬようなあどけない微笑みです。
そうです。私はそのとき、野田英夫という画家が抱いていた社会や時代への底知れない失意、深い孤独感を感じるとともに、それを覆いつくすように画面にあふれている人間信頼の光に心をうたれて立ちすくんだのです。どんなに救いのない孤独にさいなまれる日々であっても、自分は独りではないと信じることの大切さ。そこには、野田英夫が生涯を賭して戦っていた「異郷で生きることのさみしさ」があり、同時に野田英夫が終生抱きつづけていた「けっして消えることのない希望の灯」があったからです。
それはある意味で、当時19歳だった私の人生を支配していたでもありました。高校卒業後、いくつもの職を転々としたあと「東亜」の店員になった私でしたが、安月給で働く生活にはこれといった将来の目標もなく、ただいたずらに青春のエネルギーをもてあます毎日でした。家に帰れば貧しい靴修理職人の養父母が待ちうけ、ろくなオカズもない食膳をかこんで、親子三人が三畳間に折り重なって眠るだけの日々。しかし、そうした絶望的な真ッ暗ヤミの日常にあっても、どこかに「今にきっとチャンスがくる」「自分にもやがて夢を実現する日がくる」といった希望の灯があったというのも事実でした。野田英夫の「帰路」には、まさしくそうした絶望の奥からじっと自分をみつめてくれている少女の愛くるしい笑顔があったのです。
そこでもう一ど、長野市長選に出たTさんと私のことに話をうつすのですが、私は何か、自分とTさんが知り合ったきっかけがこの野田英夫という画家であったことに、ふしぎな満足感をおぼえたのです。
多少こじつけめきますが、野田英夫が「帰米二世」という自らの出自に苦しみ悩みながら、しかし最後まで「人を信じること」をあきらめなかった画家であること。そして、その画家の遺作をもとめて、何と三十数回におよび米国じゅうを放浪していた若い頃の私。そんな私にすすんで応援の手をさしのべてくれた、やはり当時アメリカのホテル業界につとめてまもなかった若きホテルマンTさん。このの出会いは、それぞれがかかえていた「望郷」の思い、そう、自分がどこでどう生きるべき人間なのか、いったい自分はどこに生まれどこに帰ってゆく人間なのか、をさがしもとめる旅の途上でおこった「必然」ではなかったかと考えるのです。
しかし、ああそれにしても、それにしても……。
そのTさんが、僅か651票という得票差で長野市長選に破れるだなんて!私の名(?)応援演説もむなしく、多くの人々の期待をあつめたあの市長選挙で無念の敗北を喫するだなんて!
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