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Nさんへ。
とつぜん「なぜNさんは父子二代にわたる宮大工の道を継がずに画家になったのですか」などという、非礼とも不躾ともつかぬ質問をうけて、さぞ不愉快な気持ちになられたでしょうが、どうかご勘弁を。ついつい、Nさんが「無言館」を敬遠する理由を私なりに詮索してゆくうちに、ふだんから心の奥に抱いていた思い──「Nさんはなぜ宮大工にならなかったのか」という疑問が一気にふき出してしまったのです。
ただ、ここまで申しあげたのですから、どうか最後まで、私の話をきいていただければと思っています。
前にものべましたように、Nさんは当代随一の人気画家でありながら、今まであまりくわしい経歴を世間に明らかにしてこられませんでした。これまで開催された公立私立を問わぬ美術館での展覧会、あるいは親しくされている大小画廊での個展のカタログをみても、ごく通りいっぺんの「青森県五所川原の高校を卒業して東京芸大デザイン科に入学、卒業後パリに留学して国際的なビエンナーレで数多くの受賞を果たし……」といった簡単な経歴がしるされているだけで、生まれ育った家庭環境や親兄弟のことについてはほとんどふれられていないのが通例でした。したがって、Nさんの祖父上、父上が高名な宮大工さんであることを私が知ったのも、何年か前ぐうぜん手にした古い美術雑誌でNさんの対談記事を読んだからで、もしその雑誌に出会わなければ、今もって私はNさんの祖父上、父上が何をなさっていたかを知らぬままだったでしょう。
そこで、私はあらためて宮大工だったNさんの祖父上、父上のことを調べてみたのです。いや、調べてみたというより、これもまたあるぐうぜんの出来ごとによって、私は図らずも祖父上、父上がもつ「もう一つの真実」を知ることができたのです。
つい最近、私は一人の戦没画学生の遺作を「無言館」でお預かりするために、ご遺族が住まわれているNさんの故郷青森の五所川原市を訪ねる機会をもちました。
その戦没画学生の名は荒関芳一といって、一九二〇(大正九)年八月に当時の青森県北津軽郡松島村、つまり現在の五所川原市に出生した画学生で、一九三九(昭和十四)年春に東京美術学校(現・東京芸大)の師範科に入学、一九四一(昭和十六)年十二月に繰上げ卒業してすぐに応召し、最初は青森の歩兵部隊に入営するのですが、やがて仙台陸軍教導学校に入学して訓練をうけ、翌年フィリピン戦線に出征、一九四五(昭和二十)年五月にセブ島・カルメン西方海域で二十四歳で戦死した若者です。
荒関芳一が戦死してすでに六十余年、遺族といっても五所川原にのこるのは、姪御さんにあたる今田百合子さんご家族だけなのですが、その百合子さんが芳一の描いた見事な四曲一双の屏風絵を戦後ずっと大切に保存されてきたのです。
この荒関の屏風絵「女性群像」は、おそらくNさんが今ごらんになっても及第点をつけられるにちがいない、一画学生の力量をはるかにこえたすぐれた作品です。
屏風の大画面に描かれているのは、洋装した女学生とみられる若い女性たち七人で、立ったりしゃがんだり思い思いのポーズをとっている躍動感あふれる絵なのですが、そこにあるのは、当時の一美術青年の西欧文化に対する憧れと、何より若い女性のはつらつたる生命力への賛歌であるといってもいいでしょう。筆運びも奔放にして緻密、淡い群青色を生かした色彩感もすばらしいですし、つくづくこの画学生にはもっともっと絵を描かせてやりたかったと唇をかむのは、私だけではないような気がします。
百合子さんの記憶では、その屏風絵は芳一が亡くなったあとも、「部屋が華やかになるので祝いごとのときなどにはよく使われ、その屏風絵の前で写真を撮るのが習わしだった」とのこと。いかに芳一が荒関家にとって特別な存在であったか、将来を嘱望された若者だったかが、そのことからも窺い知れるのです。
……おっと、戦没画学生荒関芳一の話はこれくらいにして、そろそろ本題に入らなければなりません。
私は百合子さんご家族と、荒関の屏風絵「女性群像」を「無言館」に収蔵させていただく約束を交わしたあと、百合子さんの案内で五所川原市の町外れにある荒関芳一のお墓参りをさせてもらったのですが、タクシイでその墓地にむかう途中、前方の小高い丘の上にぽつんと建っているふしぎな建物をみつけたのです。それは、黒い屋根瓦をひからせた祭殿のような木造の建物で、周りの丘陵にはいわゆる屋敷林のような樹木がうっそうと繁っていました。
私が、あれは何ですか?と問いますと、百合子さんは
「あ、あれは雄魂殿といいましてね、戦争中に村の兵隊さんを送り出した建物です。芳一さんもあそこから出征したときいています」
とこたえました。
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