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Nさんへ。
「あと十年生きていればクボシマの仕事の完成を見届けられる」――私の長年の秘書Mさんはそんな言葉をのこして亡くなったのでした。しかも、きっかり約束だったその「十年目」をむかえた春に。
今でも思い出すのですが、Mさんは北九州小倉の人で、劇団づとめの間に知り合った照明家のご主人と結婚して上京、最初私の会社の門を叩いたのは新聞広告の募集をみてのことでした。始めて私の面接をうけたときに、Mさんが私に
「社長さん(私のこと)が一番なさりたいお仕事は何なのですか?」
と訊いたことをはっきりおぼえています。
当時信州上田の「信濃デッサン館」は開館したばかりで、その他に私は東京世田谷でギャラリーや小ホール(若い音楽家や舞踏家たちの発表の場でした)も経営する二足のワラジ、三足のワラジをはいたマルチ事業家でしたから、Mさんの眼からみればすこぶる夢の多い「移り気」な経営者にみえたのでしょう。それにしても、就職を希望してきた側のMさんが、経営者である私にむかって開口一番してきたのですから、正直そのとき私はドギマギしました。
そして、そんなMさんの問いに
「わらわれるかもしれないけれど、ボクは今の仕事が本当に自分のやりたいことであるとは思っていないんですよ」
そうこたえたのです。
「美術館もギャラリーも、ホールもですか?」
「そう、ぜんぶ。ぜんぶボクが本当にやりたいと思っている仕事じゃない」
Mさんはそのときそれ以上質問はしてきませんでしたが、私はMさんが亡くなった今も、ときどき自分がMさんにこたえられなかったその「自分の仕事」について考えることがあるのです。
いったい自分は何をやりたかったのか。何をやりたくて生きてきた人間なのか。これまで六十余年の人生で、私はそのやりたいことを発見できたのか、実現できたのか。正直、私はそのことで頭をいっぱいにして今でも眠れない夜があるのです。
太平洋戦争開戦のわずか三週間前の、昭和十六年の十一月に出生、わけあって幼い頃に生父母と離別して養父母のもとに入籍、高校卒業後十何種類かの職業を転々としたのち、高度経済成長期に一年発起して開業した小酒場が大当たりし、やがて絵売り商売に転身してギャラリーから小ホール、美術館経営へと一路邁進してきた私。一路邁進といえばきこえがいいけれども、しょせん見方をかえれば、それは時代や社会の潮流にもまれながら、必死に立ち泳ぎして生きてきた浮遊人間クボシマセイイチロウの半生だったといってもいいでしょう。
ことによると、十年前病気にたおれたとき、Mさんが「クボシマの仕事の完成を見届けたい」とつぶやいたのは、そんな浮遊人間が最後にたどりつく本当の「仕事」を見届けたい、という意味だったのではないかと想像しました。Mさんはひそかに、私の仕事に従事している二十数年のあいだ、じっとその「仕事」の実現を待ってくれていたのではないか、と想像したのです。
だとすれば、私はとうとうMさんにその「仕事」を見せてあげることなく、彼女を見送ってしまったことになります。あれほど彼女が切望し、心待ちにしていた最後の「仕事」を実現できぬまま、私はMさんを冥界に送り出してしまったのです。ああ、何と罪深いことでしょう!
私は思い出すのです。
じつは、Mさんは私の会社の門を叩いたとき、一歳になったばかりのお子さんといっしょでした。
Mさんは私の社に就職するにあたって、そのことが一番気がかりだったようで、
「子持ちで勤務させてもらっていいのでしょうか」
何度も私に念をおしました。
私は、社の業務じたいはギャラリーやホールの受付と帳簿づけが主なので、そばでお子さんが遊んでいてもいっこうにかまわない、Mさんさえそのことが負担にならないのであれば、当方としては何の支障もないからとこたえたのですが、そのときMさんが心の底からホッとしたような笑顔をみせたのが印象的でした。
Mさんが第一回目の手術をうけたとき、たしかその一粒ダネのT君(現在某美術大学修士課程で勉学中)は十六歳、そしてMさんが亡くなったときが二十六歳、まるでMさんと私の「仕事」の約束のの針がすすむように、T君の成長してゆく姿がまぶしくみえたものです。 |
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