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Nさんへ。
いやはや、またしても紙一重のでした。
一昨日の午後、長野市でひらかれた小さな集会に顔を出して美術館に帰ってきましたら、受付の若い館員が、
「ついさきほどまでN先生がいらっしゃってました。これからお仕事で新潟のほうにゆくとのことで、クボシマさんにくれぐれもよろしくとおっしゃっていました」
と報告するではありませんか。
「エッ、N先生がきてくださっていたの?」
たしか今年の春にも同じようなことがあった気がするのですが、Nさんが来館されたときには、なぜか私が所用で留守にしていることが多く、はなはだ申し訳なく思っているしだいなのです。まさか神様がイジワル(?)しているなどとは思いませんけれど、どうも私とNさんは、最初から「スレ違う」運命のモトにあるような気がしてならない。ま、だからこそこうやって、私はNさんへ片思いのお手紙を出しつづけることができるのでしょうけれど…。
ただ、うれしかったのは、私の不在中であってもNさんがゆっくり時間をかけて館内を歩いて下さったということ。
とりわけ「信濃デッサン館」の奥にある「野田英夫コーナー」では、かなりの時間日系画家野田英夫の作品の前に佇んでおられたという報告をうけました。
おそらくそれは、先日の私の手紙に長野市長選に立候補したTさんのことを書いた際、米国のホテルマンTさんと私とをむすびつけたのが、当時私が血道をあげていた他ならぬ野田英夫の存在であったことを紹介したからではないかと推測するのですが、そうだとすれば、こんなにうれしいことはありません。もちろん近、現代美術にもおくわしいNさんですから、戦前の洋画壇に大きな影響をあたえ、一九三九年三十一歳五ヶ月で夭折したこの画家についてはよくご存知と思われるのですが、私が手紙のなかで野田とTさん、私のかかわりをくわしくのべたことが、Nさんの足をあらためて「信濃デッサン館」に向かわせたと考えると、何だか胸がおどる思いなのです。
女性館員の話ですと、Nさんはわけても館の一番奥に飾られている野田英夫の「野尻の花」という絵を気に入られたらしく、館を出るときに「野尻の花」の絵葉書を何枚ももとめられたそうですね。
ご承知の通り、野田英夫の絶筆といわれる「野尻の花」は、わが「信濃デッサン館」でも一、二をあらそう人気作品で、一九三八年夏、野尻湖畔に滞在中に脳腫瘍におそわれた野田英夫が、最後の力をふりしぼって描いた名作といわれています。すでに両瞼が垂れ下がり半分以上視力を失なっていた野田英夫が、迫りくる完全失明の恐怖とたたかいながら、ひらすら三十一年の画家人生のすべてをそそぎこんで描いたのが「野尻の花」でした。小さなコップに活けられたヒメジオン、ミズギボウシ、ツユクサ、コスモス、鬼アザミ等々、作品じたいはほんの四号ほどのスケッチ板に描かれた小品なのですが、そこに咲き乱れる野尻湖畔の花々の美しさ、可憐さ。同時に画面全体にみなぎる瑞々しい花の生命の輝き。専門家であるNさんがその絵のどこに惹かれたのかはわかりませんが、たぶん野田英夫がその花の生命に重ねた「生きること」への情熱、あるいは「生きること」への執着が、どこかでNさんの心をとらえたのではないかと想像しているのです。
じつは一昨日長野でひらかれた小さな集会というのは、市長選に僅か六百五十一票の差で敗れたTさんの慰労会、というより今回の市長選にTさんを推したH書店のH会長さん以下私たちの反省会でした。外資系ホテルの東京支社長という要職を投げうって、郷里長野の市政の立て直しに身を投じられたTさんの善戦健闘と、それに報いることのできなかった私ら応援団の非力をわびる集いでもあったのですが、そこでTさんが話された言葉のなかにも、二、三野田英夫にふれた文言があったので、それもNさんにお伝えしておこうと思います。
僅かの票差で涙をのんだTさんは、さぞ落胆しているだろうという私たちの心配をヨソに、むしろ晴れ晴れとした表情で挨拶に立たれ、こんなふうに語られていました。
「私は落選はしましたが、今回の選挙に出て本当によかったと思っています。遠い米国で暮らしていたときに考えていた故郷と、今こうして帰ってきた私をむかえてくれた故郷に、まったく変わりがないことがわかったからです。私はふと、クボシマさんが私に教えてくれた野田英夫という画家のことを思い出しました。野田英夫がアメリカでの生活を捨てて日本に帰ってきたのは、日本という祖国が今もどれだけ自分を愛してくれているかということを、自分の眼で確かめるためだったのではないかと思ったのです」
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