|
Nさんへ。
私の「本当にやりたかった仕事」の実現を願いながら、ついにそれを見届けることなく五十一歳で逝ったMさん。そのMさんの息子さんが早や二十七歳になったことで、私は否応なく自らの二十七年を自覚せねばならなくなった。T君の成長が、そのまま自分のの人生を浮き彫りにさせることになった。Nさんだったら、そんな現在の私のいたたまれない心境をわかってもらえると思います。
それでは、いったい私は何をやりたかったのでしょうか。私にとって「本当にやりたかった仕事」とは何だったのでしょうか。
それを解くカギは次のことにあるようです。
前回の便りのなかで、私は開戦の年に生まれて戦後の高度成長下を生き泳ぎ、何とか現在の美術館経営者の地位(?)にまでのぼりつめた私自身の半生を、ちょっぴり自嘲的に紹介しましたが、私にはやはり、あの怒濤のように自分にのしかかってきた昭和三十年代の日本という国のありよう、それまで私たち日本人が信奉してきたあらゆる価値観が、ある日一夜にして覆されてしまったような、あの理不尽といってもいいほどの時代の「心変わり」をぬきにして自分の半生を語るわけにはゆきません。
私が幼い頃(といってもそれは戦後のほんの短い期間でしたが)は、まだ日本人の心には篤実精励、忍従刻苦といった精神が脈々と息づいていました。「人間はいかなる困難のもとにあっても真っ正直に誠実に生きるべきだ」、「一生懸命働けばかならず良い将来がひらける」。かんたんにいえば、そんなひたむきな人間の生き方に対する敬意というものがあったのです。その典型が、私を育ててくれた靴修理職人の父や母の姿であったでしょう。かれらはいかに貧しくても、日々僅かな労賃の靴直しの仕事に励み、ただひたすらわが子の成長を願って働いたのです。まして私の両親の場合、私は他家からだったわけですから、その愛情にはとくべつのものがあったと推測できます。そこには、あの当時の日本人の多くがもっていた子を慈育する親の尊厳と誇り、美しい勤労の志があったのです。
しかし、私が物心ついた昭和三十年代後半あたりから、しだいにそんな日本人の「美徳」はカゲをひそめてゆきました「いかに効率よく金を稼ぐか」「とにかく金を稼いだヤツが一番だ」、甚だ雑駁な言い方ですが、わかりやすくいえばそういう単純明快な上昇志向が私たちの心を支配しはじめたのです。今ふりかえれば、それは日本人の心が変わっていったというより、何かこの日本という国全体の舳先が、大きく逆方向にカジをとりはじめたといったほうが正確だったかもしれません。
ご想像の通り、私もまたそんな「上昇志向組」の一人でした。前にものべたように、高校を出たあと服地店の店員、放送会社の印刷工、深夜食堂のボーイなどいくつかの職を転々、その頃の私はとにかく「金を稼ぎたい」「この時代の流れに乗り遅れまい」の一心でした。そして、その後借家だったオンボロ三畳間をシロウト大工で改造して小さな飲み屋を開業し、それが思いがけないくらいに当って繁盛したのです。私はたった四、五年のあいだに、東京都内郊外に四つの店鋪をもつ小酒場のチェーン店社長となり、僅か二十五歳で世田谷の住宅街に五十坪ほどの邸宅をかまえる成功者となったのでした。
しかし(他人ゴトのような言い方になりますが)、注目すべきはその後の私のでした。
私は明大前の酒場をひらいた何年後かに、店の二階にギャラリーにも小劇場にも併用できる二十坪ほどの小ホールをつくり、そこに若い画家や音楽家、役者志望の青年たちを招いて、かれらの自由な発表場所として使ってもらうという新しい事業に取り組みはじめたのです。
Nさんはまだ訪れてくださってはいないと思うのですが、現在も明大前の甲州街道近くで細々と営業をつづけている、「キッド・アイラック・アート・ホール」という何ともふしぎな名をもつ多目的ホールがそれです。ははん、と気付かれたように、「キッド・アイラック」とは喜怒哀楽をもじって付けた名で、私はそこで、まだ芽の出ていないジャズ奏者や歌手たちのコンサート、あるいは新進画家の展覧会、小劇団の公演、はたまた当時はまだ「暗黒舞踏」などとよばれていた舞踏家たちの発表会をプロデュースする仕事にうちこみはじめたのでした。
今ではこうして、私は信州上田に二つの美術館を経営する「美術館主」に落ち着いていますが、じつは昭和四十年代初めに、あの東京世田谷の小さな酒場の二階で開業した「キッド・アイラック・アート・ホール」こそが、その後の私の人生を決定する原点になったということができるでしょう。
|
|