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N君、いや、Nさんへ。
とにかく、あなたのあの「六千万円は絵の値であって、自分という絵描きに付けられた値ではない」という一言にはしびれました。月並みな言い方ですが、目からウロコ、とはああいうことをいうのでしょう。
もちろん、これはあくまでもあなたの言葉に対する私個人の解釈であって、本当はあなたは別の意味をこめて言ったのかもしれないのですが、もしその言葉が「自分の作品にどんなに高額なオファーが寄せられようとも、それは自分という人間の価値とは無関係なこと」という意味だったとしたら、私は素直にあなたの正鵠を射た発言に拍手をおくりたいのです。「どれだけ自分の作品が業界でもてはやされようと、自分はただこれまで通り一生懸命自分の絵を描いてゆくだけ」、あなたはきっとそうおっしゃりたかったにちがいない。
じつは、売れっ子有名画家のあなたほどではないのですが、、私も今、似たような境遇に置かれているのです。
というのは、さきほど千客万来を自慢した「無言館」という戦没画学生の遺作を展示する美術館が、今の私にとっては何とも居心地の悪い、どうしても「自分の仕事」と胸をはることができない美術館であるように思われてならないからです。
先にのべましたように、私はこの信州上田市の郊外に三十年前に「信濃デッサン館」を開館しました。この館は、私が若い頃からあつめてきた大正期の天才画家といわれる村山槐多や関根正二、それに戦前戦中の画壇で活動し、やはり若く亡くなった野田英夫、松本竣介、靉光といった個性的な夭折画家のコレクションをならべた私設美術館です。とくべつ名品とか傑作とかいった人気作品があるわけではないのですが、こんな片田舎の美術館が何とか三十年ものあいだ潰れもせずにやってこれたのは、ひとえにそうした画家たちの画業が、時代をこえて今も多くの人々に愛され多くの信奉者を得ているからなのでしょう。私もひそかに、そのことを自分の人生の誇りにして生きてきたといっても過言ではないのです。
ただ、十二年前に「信濃デッサン館」の分館として産声をあげた「無言館」のほうはとなると、私はどうしても「この仕事は自分がやらなくてもよかった仕事なのではないか」といった気持ちをすてることができずにいるのです。
これも何かの本でご承知かと思うのですが、「無言館」は、戦地から復員してこられた洋画家の野見山暁治さんの
「戦地から還ってこられなかった仲間たちの絵がこの世から消えてゆくのが悲しい」
という一言に心を動かされた私が、約三年半の月日をかけて全国各地のご遺族宅を訪問し、戦火をのがれて親族の手もとにのこされていた画学生たちの遺作を収集してつくった美術館です。建設にあたっては、費用の半分を全国の支援者から寄せられた浄財でまかない、あとの半分は市中銀行から私が借り入れて調達しました。ですから、ま、言ってみれば「無言館」は、私、野見山さん、全国の篤志の連係プレーが生んだ美術館とでもいっていいのかもしれません。
私の「居心地の悪さ」は、どうやらこの「連係プレー」という美術館の出自から生まれたもののような気がします。
早いはなし、野見山さんにしても全国の支援者にしても、大半は何らかの形で「戦争」というものと正面からむかいあってきた人たちでした。野見山さんは東京美術学校(現東京芸大)を昭和十七年に繰り上げ卒業して満州の牡丹江に出征、戦地で肋膜を患って昭和十九年に復員してきた画家であり、「無言館」建設にご協力いただいたご遺族、画学生の友人、関係者の多くも「戦争」体験者でした。もちろんなかには、直接「戦争」を知らない若い世代の人たちもいることはいたのですが、少なくとも常日頃から「戦争」という六十余年前の苛酷な歴史に関心をもち、その理不尽な時代の仕打ちによって画家への志を断たれた戦没画学生たちに対して、人一倍哀惜の思いを抱いている人たちが「無言館」建設に立ち上がってくれたのです。
しかし、かんじんの「無言館」館主の椅子におさまっている私はといえば、正直これまで一度として真剣に「戦争」のことなど考えてはこなかった人間なのです。もちろん太平洋戦争が開戦した昭和十六年にこの世に生をうけ、いわば戦後日本の経済復興とともに六十路の今日まで生きてきた人間ですから、まったくあの戦争の記憶がなかったというわけではありません。終戦後の食糧難の経験、疎開先の東北から帰ってきて、親子三人で空襲の焼け跡をさまよいあるいた日の思い出は、今も胸の奥にきざまれています。
でも、私は全国の戦没画学生の遺族先を訪れているあいだ、その旅が「戦争」をふりかえるための旅であるなどとはツユ考えていなかったのです。私も野見山さんと同じように、かれらの絵がこの地上から消えてしまうのがイヤだっただけで、「戦争」の傷跡をたどろうとか、「戦争」の犠牲者の鎮魂につとめようだとかいう意識はこれっぽちもなかったのです。 |
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