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Nさんへ。
正直いって、Nさんの祖父上が戦争で亡くなった大工仲間に対して、終生、負い目のような感覚を抱いていたということをきいて、私は何ともいえぬ感動をおぼえました。加えて、宮大工の世界ではつとに知られた「名工」の一人であるNさんの父上が、やはり名だたる宮大工の子であったことにも感激しました。同時に、その祖父上が戦後数十年の歳月のなかでずっと「戦死者」のことを気にかけ、それを負の記憶として胸にきざみつづけていたことに、ある種背筋がシャンとのびるような気持ちをもったのです。
よく私たちは、「戦争の記憶が風化されつつある」などという言葉を口にします。
あの太平洋戦争で命をうしなった日本の兵隊は三百数十万人、近隣アジア諸国の人々をふくめれば数千万人の犠牲者を生み出したといわれています。その消しゴムで消すことのできない歴史の傷跡から、早や六十五年の月日が経ち、私たちは今、戦後のめざましい経済復興のすえにたどりついた豊饒社会のなかで、ともあれ自由を満キツし日々忙しく暮らしているわけです。しかし、そんな生活のなかで、あの戦争でどれだけ多くの人々が亡くなり、遺された家族が辛酸をなめる生活を余儀なくされたか。あの戦争という時代がいかに不条理で理不尽なものであったか、という記憶が、どんどん薄れていっているのではないかと憂いているのです。
たしかに太平洋戦争の終結からは六十五年という歳月がながれましたが、それはまた、僅か六十五年しか経っていないということでもあります。戦場のツユと消えた三百数十万におよぶ戦死者の、その一人の霊を一日かけて見送るとしたら(つまり一人の葬式を一日かけて行うとしたら)、何と一万年近い月日が必要ということになるのです。その「一万年」に比して、「六十五年」とは何という短さでしょう。そんな僅かな月日のなかで、私たちはあの「戦争の記憶」を忘れてよいのでしょうか。そんなことが許されるのでしょうか。
有名な宮大工さんだったNさんの祖父上が、戦争で死んだ同じ大工仲間のことを、いつも心の奥に仕舞いこんでいたというじじつは、そうした「戦争の記憶」がつねに同世代人の心のなかに生きつづけ、次の時代に伝えられてゆくという証明でもありましょう。「記憶の風化」、「記憶の風化」と、私たちは口グセのようにいいますが、どっこいあの苛酷な戦争の時代の記憶は、そう簡単に人々の心から消えるものではないのだ、ということを、Nさんの祖父上は教えてくれているように思えました。
宮大工の祖父上が、お国の命令(注文)をうけてつくった建物は、いってみれば「戦争画」を描く行為と同じだったと仰言ったことにもおおいに肯けます。戦場に赴くことなく戦後の繁栄のなかを生きのびた自分が、お国の伝統の象徴である寺社仏閣をつくること、それはどこかで仲間を戦地に追いやった「国」の権力にする行為なのではあるまいか。いや、あれだけ多くの仲間を失った戦争というものから、一太刀の傷も負うことなく生きてきた自分に、仲間にかわってをひきうける資格があるのだろうか。祖父上はきっと、そういう思いにとらわれていたにちがいありません。
Nさんが対談記事で語ったところによると、祖父上は人一倍身体が小さく、また若い頃には胸を患ったことがあるとかで、いわゆる兵役検査の丙種にも合格できず、ついに大戦には出征しなかった人なのですね。それだけに、同じ宮大工を志していた仲間が何人も戦死したというじじつは、とりわけ祖父上の心に重くのしかかっていたと思われます。じつは、靴の修理職人だった私の養父も、丙種合格にみたない小柄な身体だったために、とうとう戦争にゆくことのなかった人間でしたから、その負い目は何となく想像がつくのです。
私の養父の場合は、どちらかというと「負い目」というよりも、戦争に参加できなかったことに「劣等感」を抱いていたようで、何かにつけて
「わしはお国の役立たずモンだったからなァ」
とか
「どんなに苦労しても、わしにはお国に文句をいう資格なんかない」
とか、グチとも繰り言ともつかない言葉を口にしていたものでした。
厄介だったのは、Nさんの祖父上がふつうの大工さんではなく、日本建築の枠ともいえる寺社仏閣を建設する「宮大工」であったことです。仕事の性格上、その依頼先の大半は各地方に点在する名刹、古刹の本堂や庫裡の建築、またはそれら文化財的建築物の修復であったと思われます。そして、祖父上がわが国における宮大工の世界でしだいに名をたかめ、その腕が広く世間に認められるようになってからは、仕事のほとんどは国や県直属の機関から発注されるものになっていったと考えられるのです。
それはある意味で、祖父上の胸裡にあらためてあの「戦争」を、あの「思い出したくない記憶」をよびさますきっかけをあたえたといえるのではないでしょうか。
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