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Nさんへ。
長々と話をしてきましたが、けっきょく何をいいたいのかといえば、私はNさんの祖父上が抱いていた「戦争」、あるいは「戦死者」に対する負い目意識というものは、祖父上が「宮大工」であったということとけっして無縁ではないと思っているのです。
人間の「記憶」の集合体である「家」というものを、日本古来の伝統的工法で建築するという仕事は、ある意味でその時代に生きた人々の「生」の営みを伝承することでもあるでしょう。だとすれば、祖父上はあの戦場で命を奪われ、帰ってこられなかった人々の「家」を復元、再生する仕事に取り組んでいたわけです。戦争さえなければ、戦死さえしなければかれらがそこに生きていたであろう「家」の建築。それが、かの戦争を先導した「国家」を象徴する伝統的建築物であればあるほど、祖父上はそのことに苦しまれ悩まれたのではないでしょうか。
つまり想像するに、そのときの祖父上の心情はこうだったと思うのです。
自分は「宮大工」だから、日本国内にのこされた寺社仏閣、名刹古刹を修復し、復元するのが当然の仕事だが、ほんらいそこにされるべきは戦場にった人たちの生命そのものではなかったか。わがお国が守るべきもの、尊ぶべきもの、それは何をおいても国民の生命のほうではなかったのか。「家」であれ「寺院」であれ、それが生活空間として、あるいは信仰対象として生きつづけられるのは、それを必要としている人間、手を合わせる人間があっての話ではないのか。あの戦場で命果てた数知れない犠牲者の無念を考えるとき、自分たち「宮大工」の仕事は、どこか外れで空疎な営みに思えてならぬ。
まあ、牽強付会といえば牽強付会、果たしてNさんの祖父上がそれとそっくりの思いを抱いていたかどうかはわかりませんが、祖父上が「自分がやっている仕事は戦争画を描いているようなもの」といった言葉のウラには、そうした心情がかくされていたような気がしてならないのです。
もちろんこの場合、祖父上のいう「戦争画」とは、戦争中のいわゆる「戦意昂揚画」を意味するのではなく、かれらを戦場に駆りたてた「国家」に対する「奉納画」とでもいうべきものだったのでしょう。祖父上は「国」から発注された寺社仏閣の建築に取り組むたび、その「国」に対して複雑な愛憎の思いをかきたてられたにちがいないのです。自分の仕事はどこかで、かれらの生命を奪った「国」に服従し、その過ちを許すことにつながるのではないか、祖父上はそのことに日夜苦悩されていたのではないかと想像するのです。
同じような思いを、例の「松代大本営」の工事にあたった指導者にも抱くのですが、いかがでしょうか。
いうまでもなく「松代大本営」とは、私の美術館のある上田から北へ七十キロほど行った長野市松代町にある。太平洋戦争末期につくられたいわゆる「天皇の御座所」のこと。この戦術司令基地でもあった大地下壕の掘削工事は、第二次大戦中陸軍によって遂行され、終戦時には八十パーセント近くが完成していたといわれますが、昭和十九年秋から翌二十年夏にかけて、強制連行された朝鮮人らを動員して集中的に突貫工事が行われたというじじつは多くの人が知るところです。あの二十万人余の民間人犠牲者を出した沖縄戦のさなか(もう少し戦争が早く終わっていれば!)、遠い信州松代の地に「国体護持」と「本土決戦の準備」をかねた天皇の「おましどころ」の工事が着々とすすめられていたことに、追いつめられた「国」の狂気をみる思いがするのは私だけではないでしょう。
誤解をおそれずにいえば、あの「大本営」の掘削工事にあたっていた当時の指導者は、本土における空襲の犠牲者、沖縄での犠牲者に対して取りかえしのつかない過ちを犯していたといえるのではないでしょうか。そして、心あるごく一部の指導者は、心の奥のどこかでそうした罪の意識におびえていたのではないでしょうか。
すべてはあの異常な「戦争」下に起こったこと、「大本営」は当時の日本国民の総意をもって建設されたもの、という言い訳は成り立つかもしれません。
しかし、今も厳然と信州松代の一かくにのこる「大本営」跡は、あのあまりに無為にして無謀だった「戦争」の記憶を鮮明にとどめています。なぜあの戦争は起こったのか、指導者はなぜ戦争の終結を考えなかったのか、沖縄の犠牲をどう思っていたのか、あらゆる疑問をのみこんだ戦時下の巨大な「空洞」は、戦後六十余年経った今も、私たちに多くの問いを発しつづけているのです。
そうです。わが「松代大本営」は、私たちに「戦争」という原罪の記憶をよび起こす、わが国最大にして無二の「古民家」であるともいえるのです。
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