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Nさんへ。
さてさて、宮大工だったNさんの祖父上がかの大戦における「戦死者」に対して抱いていた心の傷のこと、ぐうぜん私の祖父も同じ「宮大工」を生業としていた人で、最近その祖父のつくった大正期の「古民家」が台湾に移築され、そこに「水上勉文庫」が開設されたこと、また、私の美術館のある長野県の松代町にある戦跡「松代大本営」が
今やまぎれもなく、「戦争」の罪科を現在に伝える重要な「古民家」になっていること等々、話があちことにとびましたけれども、ここでもう一ど、そもそもこんな話をはじめた最初の発端であるNさんの「無言館嫌い」(?)について語らせていただくことにしましょう。
たぶん、ここまでいえばわかってもらえると思います。
私は、これまでいくども「信濃デッサン館」を訪れているNさんが、なぜ隣接地にある戦没画学生慰霊美術館「無言館」には足を運ぼうとされないのか、なぜ「無言館」を敬遠なさるのか、ことによるとそれは、宮大工だった祖父上のもっていた「戦死者」への負い目を、Nさん自身ももたれているからではないかと思っているのです。
つまり、Nさんは祖父上が終生胸にきざんでいた「戦死者」への思い、もっというなら「戦争」に不参加のまま戦後を生き永らえた祖父上の慙愧の念を、いわば「隔世遺伝」のように引きずってこられたのではないのか。Nさんが「無言館」に来られないのは、戦没画学生の絵にふれることによって、そうした「戦争」に対するふくざつな心情をあらためてかみしめることになるからではないのか、そう思っているのです。
じつは、Nさんが「信濃デッサン館」の靉光の絵をみたあと
「無言館にも飾られていますよ」
という館員のすすめを断って、そのまま帰途につかれたときいたとき、私はますますその確信をふかめたのでした。
何どもいうように、靉光は私にとって、「信濃デッサン館」と「無言館」とをむすぶ架け橋的な存在の画家です。かならずしも世間から正当に評価してもらえているとはいえない私の二つの美術館が、同根の存在意義、存在理由をもっていることを証明してくれる唯一無二の画家であるといったらいいでしょうか。戦前の日本の洋画壇に巨跡をのこした歴史的な画家であると同時に、戦争によって命をおとした戦没画学徒としての一面をもつ画家が靉光なのです。
その靉光の絵を、Nさんは「信濃デッサン館」ではみても、隣接地に建つ「無言館」ではごらんになろうとしない!
それは、とりもなおさずNさんが、「無言館」の中で靉光の絵をみることに耐えられなかったからではないでしょうか。「無言館」の靉光をみれば、Nさんは「靉光を見殺しにした」ご自身と向き合わざるを得なかったからではないでしょうか。もちろん、Nさん自身が靉光の戦死に手を下したなどといっているのではありません。ましてや、かの「戦争」の一端をNさんがっていたなどといっているのでもありません。
私が想像するに、Nさんにとって「靉光を見殺しにした時代」の延長上にご自分が生き、しかも戦後の繁栄を享受しながら、靉光と同じ画家という生業をもって生きていることじだいがゆるせなかったのではないかと思うのです。
こういうと、Nさんはきっと反駁されるでしょう。
いくらなんでも、そんなふうな予見をもって自分の心中を想像するのは行きすぎではないか。たしかに靉光という、近代洋画の至宝とでもいうべき画家を戦争で失ったことは痛恨の極みだけれども、その責任を戦後六十余年も経った現代に生きる自分にかぶせるのはあまりに酷な話だ。だいいち、「戦後の繁栄を享受」して生きているのは、何も私たち絵描きだけではない。戦後を生きた日本人は、だれもが多かれ少なかれ、あの戦争犠牲者の上に築かれた経済的繁栄の恩恵をうけて生きてきたのだ。そんなことをいうなら、未来永劫ずっとわれわれ日本人は、あの「戦争」の罪を背負って生きてゆかねばならなくなるではないか、と。
それはその通りです。
あの六十余年前に起きた忌まわしい「戦争」にいつまでも呪縛されることはまちがいです。私たち今を生きる人間は、二どと「戦争」を起こさないという決意をもっていればそれでいいのです。不戦の決意をもつことと、いつまでも過去の歴史に捉われ自らを責めることとは別なのですから。
でも、それならばなぜ、NさんはN家二代にわたった「宮大工」を継ごうとなさらなかったのでしょうか。
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