|
Nさんへ。
ところで、ここまで書いてきて思いだしたのですが、例のニューヨークのオークションで落札されたあなたの作品、たしか「早春」という題名(タイトル)でしたね。これまでにもあなたの作品には、ちょっと意表をつかれるというか、ある種意外性のある題名が付けられることが多く、それがまた、あなたを支持するファンにはたまらない魅力の一つになっていると思われるのですが、この「早春」もなかなかのものでした。
今や私たちの世界では、「Nドール」とも「N少女」ともよばれているNさん独特の、ちょっとオデコでこましゃくれたふんいきのお下げ髪の少女。そして、その後方に消え入るような、まるで日本画の面相筆のような線で描かれた朱い花。「早春」と題されているところをみると、どうやらこの花は「桜」のようにもみえるのですが、あまりにか細い線と淡い色彩で描かれているので、一見するとどこか冥界の山奥にでも咲く幻の花といったようにもみえます。いや、花が冥界に咲いているというよりも、その絵ぜんたいがこの世ならぬ浄土世界の光景を描いたもののようにさえ思えるのです。
しかも、この絵から感じとれるのは、すぐそこまで近づいている春の歓びを待ちわびている少女というより、むしろその春がもたらすであろう凶事というか、不幸な出来事におびえている、少なくともその春の到来を待ちのぞんではいない少女、といった印象のほうがつよいのです。
私はこの作品をみたとき、ああ、やはりNさんは現状に満足していない画家なんだなと合点したものでした。あなたは内心どこかで、自分に近づいてくる「春」を拒んでいる、いや警戒している画家なのだな。と思ったのです。
多少牽強付会めくことを承知でいえば、そんな「春」とあなたとの距離は、現在の私と「無言館」の距離ととっても似ているかもしれない。
十二年前の春に「無言館」が開館したとき、正直、私と野見山さんはこの美術館がそんなに好感をもって世の中にむかえられるなどとは思っていませんでした。何せそれまで十数年間経営したきた本館の「信濃デッサン館」からして、文字通り青息吐息の経営状態でしたから、その分館として建設した「無言館」に来館者が殺到するだなんてことはとても想像つかなかったのです。
だいたい、(「無言館」が開館した十二年前は)戦後五十年をむかえようとしていた時期であり、戦争で死んでいった無名の画学生の存在など、だれも関心をもっていないと考えるのが自然でした。もっというなら、そこにあつめられた作品は、それまで半世紀にわたって私たちが「ないがしろ」にしてきた画学生の絵であり、一どとして私たちが「見返ろう」とはしてこなかった画家の卵たちの絵ばかりなのです。そんな絵をあつめた美術館が、今の世の中にどれだけ理解されるだろうか、どれだけ存在価値を認めてくれるだろうか、私と野見山さんが半信半疑だったのは当然のことといえたでしょう。
しかし、その目論見は見事に外れました。目論見が外れた、というのもおかしいのですが、とにかく私たちの「無言館」は、設立者である私たちの予想を大きく裏切って、世間の大喝采をあびる華々しいデビューをとげたのでした。開館した当日は、朝日新聞の「天声人語」が二日間にわたってその話題をとりあげ、人気報道番組の「ニュースステーション」や「ニュース23」がこぞって取材にやってきました。いつもは一日に何台か農耕車が通るだけの田舎のアゼ道が、東京や関西ナンバーの自動車で大渋滞になったときには、それこそ私は何か自分が大犯罪をおかしているような気分になったものです。
でも、これまで縷々のべてきましたように、そんな「無言館」の春の到来は、いっぽうで私をおおいに悩ませ、苦しめ、私自身に「この美術館はいったい何なのか」という大きなテーマをつきつける要因ともなったのです。そう、いってみれば十二年前の「無言館」開館の春は、私にとって信じ難いほどの幸福の訪れであったと同時に、それまでの私自身の美術館に対する考え方を根底から問い直さなければならない分水嶺の「春」ともなったのでした。
広島に投下された原子爆弾によって翌昭和二十一年、二十三歳で被爆死した伊藤守正(現在「無言館」に展示されているなかでも私が好きな画学生の一人です)の母親は、手もとにのこされた息子の手紙を小冊子にまとめ、それに「春は厭(いと)はしくなりぬ」という題をつけています。母親はその小冊子で「私は春と共に春のような青年守正を失った・・・・・・春は厭はしくなりぬ」と慟哭してしているのです。もちろんこれは、あの戦争で愛するわが子をうしなった万余の母親が共有する思いかもしれませんが、古来から「春」という季節には、そうしたやるせない二面性がかくされているともいえるのでしょう。
Nさん、あなたの「早春」にも、そんな「春」の厭はしさがこめられているような気がするのですが、どうなのでしょうか。 |
|