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Nさんへ。
私がここ信州上田にやってきたのは、ある意味では現実から逃れたい、現実から眼をそらしたいという気持ちからだったといいましたが、それは「無言館」に飾られている戦没画学生にも共通した心情ではないかと思うのですが、どうでしょうか。
あの太平洋戦争下、多くの若い生命が戦地に駆り出され、あえなく戦場のツユと消えたのはご存知の通りです。とくに戦況悪化が伝えられた昭和十八年を境に、それまで学生にあたえられていた兵役免除の特権が廃止され、全国何万もの若者たちが出征を余儀なくされました。どんなにその時代の不条理を呪い、その理不尽な仕打ちに抵抗してみても、召集令状がくれば日本国民である以上、だれもがおクニのために戦わなければならなかったのです。
しかし、「無言館」にならんでいる画学生たちの絵をみていると、それはけっして「恨み」とか「呪い」とか「無念」とかいった思いばかりを表現している作品ではないことに気付かされます。
ある若者は愛する婚約者を描き、妻を描き、敬愛する父や母、可愛がっていた妹や弟を描いて戦地に発っています。また、幼い頃あそんだ故郷の山河、夢を語り合った竹馬の友の絵をのこして出征しています。そこに描かれているのは、「戦争」に苦悩する人間の姿ではなく、むしろそんな時代下にあっても、笑顔を失わなかった愛する者との心の交歓であり、つかのまの幸福に浸ろうとする庶民のけなげな日常生活なのです。
ときどき「無言館」を訪れた人たちから
「案外、明るい絵が多いんですね」
とか
「戦争の時代でもこんな絵が描けたんですね」
とかいった感想をもらうことがありますが、たしかに画学生たちが描いた絵は、あたえられた「戦争」という時代を少しも感じさせない絵が多いのです。
私はそれを、画学生たちのもつ一種の「現実忌避」の表れであり、つらい時代からのがれる有力なの一つだったのではないかと想像するのですが、Nさんの感想はどうでしょうか。
じつは私はひそかに、この「現実忌避」、いわば自らを「時代」や「社会」の拘束から解放させることこそが、芸術表現に課せられた大きな役割であると考えているのです。私たちが専門にしている絵画表現だけではなく、文学であれ音楽であれ、それは人間の魂を「時代」や「社会」のしがらみから解き放つ力をもっているのではないか、と。
当時の画学生たちが置かれていた「戦時下」という時代状況は、かれらから「絵を描く」というかけがえのない自由を奪い、将来夢みていた「画家になる」という人生計画をも無惨に打ち砕くものでした。将来を嘱望された多くの才能ある画学生が、草でもむしられるように戦場に駆り立てられ、二どと画布にむかうこと叶わぬまま一握りの砂となって帰ってきたのです。
しかし、かれらはその「遺された時間」を、精いっぱい「絵を描くこと」に費やし、ひたすら絵筆をとりつづけることによって乗りこえようとしていました。許されたギリギリの時間まで、一心に絵具をとき、絵筆をうごかし、その「生の証」を一枚の画布にきざんで戦地に発ったのでした。
私には、そうした画学生たちの作画の時間が、かれらの脳裡から「戦争」を忘れさせ、自らが置かれた「時代」を忘れさせる至福な時間であったように思われるのです。召集令状をうけとったのち、ことによるともう二どと祖国には帰ってこられない、絵も描けないかもしれないという予感を抱きながら、かれらは愛する妻や恋人を描き、父や母の姿、故郷の風景を描きつづけたのです。そこには、国家もなけれは社会もない。ただただ「愛する人」をみつめた一人の画家としての、人間としての眼差しだけがあったのです。
たしかに当時、そんなかれらの姿は、世間の眼からみれば文字通りの「非国民」であり、国家の非常時に恋人の裸体を描いている不謹慎なにうつったことでしょう。まだまだあの頃は、美術学校で学ぶことさえが「文弱者」とよばれ、かれらの才能に期待する家族たちまでが白い眼でみられていた時代だったのですから。
しかし、それはある意味で、画学生たちだけがもつことのできる見事な「現実忌避」の行為であったともいえます。もっというなら、画学生たちはせめて絵筆をとっているときだけは「戦争」や「時代」から逃げることができたのです。苦しくツライ現実を忘れることができたのです。
「現実忌避」──ああ、何という素晴らしい芸術の美徳でしょうか。
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