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Nさんへ。
ともかく、今や、わが館におけるNさんの人気は急上昇中らしいのです。
もちろんNさんといえば、今や現代日本画壇を代表する超売れっ子画家で、きくところによれば百貨店の個展では初日のうちにほとんどの作品に赤フダがつくとか。つい先日も、ある美術雑誌で「もし一点だけコレクションするとしたら」という特集が組まれていましたが、そこでもNさんは堂々一位に選ばれておりました。美術の愛好家、ことに現代日本画を愛するコレクターにとっては、もはやNさんは雲の上の大スターであるといってもいいでしょう。
しかも、わか館の若い館員にいわせれば、Nさんはちょっとした「ヒネクレ者」だそうなのです。いわゆる体制にしないとでもいうのでしょうか、どこか既成の価値観に服従しないガンコなところがあって、それがまた人気画家Nさんの魅力を押しあげているというのです。たしかにNさんの作品には、私の眼からみてもある種の悪魔性というか、世間や社会の常識にうような「毒」がひそんでいることはじじつなのですが、若者の評では、それはNさんという人間がもっている「反骨の姿勢」からきたものではないかというわけです。
Nさんは私の営む二つの美術館──「信濃デッサン館」と「無言館」のうち、なぜか「無言館」を訪れることはめったになく、ほとんど「信濃デッサン館」だけを鑑賞してお帰りになる。年間十何万人が訪れる話題の「無言館」には見向きもせず、いつも閑古鳥が鳴いている「信濃デッサン館」のほうを贔屓にしてくださる。どうやら私の館の若者には、そういうところもNさんが「世間の評判にながされない」「体制にながされない」、ちょっぴりな絵描きさんとして受け取られている理由なのかもしれません。
といいますのは(Nさんはとうにお忘れになっていると思いますが)、ずいぶん以前にNさんが「信濃デッサン館」を訪れられたとき、こんなことがあったと館員からきいていたからです。
何でもそのときは、Nさんは靉光という画家の作品を熱心にみていたそうで、小生が出した何冊かの靉光に関する書籍も購入してくださったそうなのですが、帰りぎわにウチの館員が
「無言館のほうにも靉光の作品がありますが、ごらんになってゆかれたらどうですか?」
そう声をかけさせてもらったそうなのです。
するとNさんは
「エッ、無言館にも靉光があるんですか?」
ちょっと驚かれたようでした。
「ええ、靉光も上海で戦病死した画家なので、拡大解釈すると戦没画学生の仲間に入るんです。何ヶ月か前から、「無言館」にも一点だけ十九歳当時の水彩画を飾らせてもらっています」
館員が説明しますと
「なるほど、そうですか」
Nさんはいったん肯かれたのですが、すぐに
「やっぱりに行くのはやめときましょう。どうもあっちは苦手で」
そんなふうに答えられたというのです。
さすがに、この答えには若い館員も奇妙な印象をもったようです。
なぜなら、その日のNさんはご自分の運転する自動車でやってこられて、「信濃デッサン館」にはずいぶんゆっくりとされていたからです。美術館を出たあとも、ウラ手にある真言宗前山寺の境内にまで散策にゆかれ、重要文化財の三重塔やカヤブキ屋根の本堂、参道にそびえる樹齢何百年にもなるケヤキの木を長い時間ごらんになっていたとうかがっています。それなのにNさんは、ほんの五百メートルほどしか離れていない「無言館」には足を運ばず、ふたたび「信濃デッサン館」にもどって喫茶室でコーヒーを召し上がって帰られたというのです。館員ならずとも、「せっかくなのだから一どくらい無言館をみてくださってもいいのに」と思うのは当然でしょう。
まして、Nさんもご興味をおもちの靉光(本名石村日郎)は、私の二つの美術館をむすぶ大切な画家でもあります。
一九〇七年に広島県に生まれ、太平洋画会研究所などで学んだ靉光は、戦前独立美術協会展や新人画会で活躍、すでに近代日本洋画史上に燦然と輝く足跡をのこした画家ですが、惜しくも先の太平洋戦争で中国に出征、一九四六年一月上海華中において三十八歳で戦病死しています。私の美術館にとって、靉光は「信濃デッサン館」にも「無言館」にも展示されている、いわば「夭折した異端画家」と「戦争で死んだ画学生」の二つの顔をもっている画家なのです。
Nさんには、私の二つの美術館の存在である靉光の作品を、ぜひぜひ「無言館」でも見ていただきたかった! |
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