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Nさんへ。
ここまで書いてくれば、Nさんにも「なぜ私がTさんの市長選挙の応援をひきうけたか」という訳がわかっていただけると思います。本来そうした政治の世界には首をつっこむべきではない、いわば世間に日和見を売る商いであるといってもいいの私が、なぜ過熱する市長選挙の前線でマイクをにぎる決意をしたか、ということがわかってもらえると思います。
そうです。長野県内きっての書店チェーンの会長であるH氏から「Tさんの応援講演をしてもらえないか」という依頼をうけたとき、たちまち私の頭にはあの三十年前の、米国ニューヨークで出会った青年ホテルマンのTさんの横顔がうかびあがったのです。同時に、あのときTさんが言った「信州の人を信じてください」という言葉が鮮明によみがえったのです。
とはいえ、私とTさんがそんな関係にあることを知ったH氏は、心の底からびっくりしたようでした。
「へぇ……そんなことがあるんですねぇ」
たまたま応援の講演者として白羽の矢をたてた私が、H氏がTさんを知る何十年も前からの知り合いであったという偶然に、ただただ驚いたといったふうでした。あとからきいたことですが、H氏は私が応援をひきうけてくれたということをTさんに報告したとき、H氏がTさんに、
「クボシマさんとはふるくからの知り合いなんだそうですね」
とききますと、
「ええ、よく存じあげています。でも、もう何十年も前のことですから、クボシマさんがぼくを覚えてくれていたというのは光栄です」
Tさんはそんなふうにこたえられたのだそうです。
私はH氏にいいました。
「光栄なのはこっちですよ。ぼくはTさんが今回の長野市長選に出られるというのを新聞で知って、ぼくのほうから一どお会いしにゆこうと考えていたんです。それが、こともあろうに私がお世話になっているHさんがTさんの支持者で、その縁でTさんの応援をたのまれるだなんて、何がかとってもふしぎな気がします」
それはウソ偽りのない私の正直な気持ちでした。
まだお若いNさんはピンとこないかもしれませんが、今年六十九歳になる私のような老境男になりますと、これまで生きてきた人生の暦が、もう一度めくり返されてゆくような経験をすることがよくあるのです。何十年も前の友人知己が、ある日突然私の美術館を訪ねてきてくれたり、やはりこれまで音信不通だった友の名前が、何気なく手にした新聞の片隅にのっていたり、あるいは遠い見知らぬ町に講演に招かれたら、そこに中学時代の級友が夫婦で聴きにきてくれたり、最近はそんなことがとても多くなりました。そう、何だか運命の神サマが急に暦をめくる手を早めたのではないか、といった出来事がよくあるようになったのです。人間の一生が眼にみえぬ脚本家の手による一篇のドラマであるとしたなら、あと何ページかで最終章をむかえるにあたって、あわただしく過去の登場人物たちと顔を合わせる場面が用意されてゆくような、そんな人との出会いが頻繁に訪れるようになったのです。
おそらく、私とTさんの再会も、そんなによって仕組まれた出会いだったのではないでしょうか。
ともかくその応援講演会の当日(もう選挙の投票日がすぐそこまで近づいていた頃でした)、私はTさんと三十余年ぶりに対面したのでした。上から下までビシッとした新調のスーツできめこんだTさんは五十六歳、昔より多少ふっくらとしたようでしたが、眼鏡をかけた聡明そうな風貌はちっとも変わっていません。マンハッタンをさっそうと歩いていた若きホテル・マンのふんいきが、五十代半ばとなった今もまるで変わっていないことにびっくりさせられました。
「今日はよろしくお願いします」
とTさんが頭をさげられたので、
「ぼくの話が選挙の票集めにどれだけ役立つかわかりませんが、少しでも多くの人たちに私の知っているTさんのことをきいてほしくてやってきました」
と私はいいました。
そして、その日私は、Tさんの支持者がいっぱいつめかけた長野市のKホテルのホールで、三十年前のTさんとの出会いを話させてもらったのです。
「信濃デッサン館」を開館してまもない頃、私がアメリカ生まれの野田英夫という日系画家の遺作をさがして、何ども何ども米国本土を訪ねていたこと。語学もできず現地に頼れる知り合いもなかった私にとって、野田の縁者を訪ねるアメリカの旅は、文字通り苦労の連続だったこと。そんなとき、たまたま日本領事館の方に紹介された信州戸隠出身のTさんが、親身になって私の道案内をつとめてくれたこと。そしてその旅の途上、Tさんが私に言った「人の心をうたぐる前に人を信じよ」という言葉を今も忘れていないということ……。
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