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Nさんへ。
ここまで書いてくると、Nさんはこうおっしゃるかもしれませんね。
戦後の高度成長期下の水商売で大儲けした私が、そうした「経済的成功」だけでは満足できず、若い表現者たちの橋頭堡とでもいうべき「キッド・アイラック・アート・ホール」なる小ホールを設立し、そこに集うアーチストたちの活動を手助けする仕事をはじめた。それはある意味で、私が青春の頃から抱いていた芸術に対するひそかな憧れ、夢のようなものがになった結果であり、たんなる金稼ぎだけではないロマンの実現であったはず。だとすれば私は、もうそれだけでじゅうぶん。「やりたかった仕事」をやりとげたことになるのではないか、と。
そう、たしかに私は水商売で儲けた金をモトに、若い表現者を育てる小ホールの経営に転身し、それがまがりなりにも一応の成果を得た(今も得ている)というじじつは否定しません。現在マスメディアの一線で活躍しているミュージシャンや歌手のなかには、私のホールから巣立った人が何人もいます。あるジャズ奏者の新人時代のコンサートはいつも客が入らず、私も彼といっしょに駅前で立ちづめでチラシを配ったものでした。またある小劇団の若手俳優は、私のホールで何年もつづけていた「ひとり芝居」で脚光をあび、今やその世界では押しも押されぬ人気俳優に成長しています。そういったは、ホールの経営者である私にとって大きな喜びであり誇りであることはたしかなのです。
しかし、です。
私は「キッド・アイラック・アート・ホール」を設立してからも、どこかでこれもまた「自分の仕事」ではないということを直感していたのです。この小さな私設ホールでのプロデューサー業もまた、自分がもとめていた仕事とはちょっとちがうものなんじゃなかろうか。
つまり、私はホールから巣立ってゆく(私たちはそれを「卒業する」とよんでいましたが)多くの若い表現者たちの背中をみながら、どこかでその仲間に入れないでいる自分自身の空虚な存在に気付きはじめていたのです。かれらの躍進に拍手をおくりながら、いっぽうで心の内部にポッカリとあいたろな穴をみつめている自分がいたのです。いくら優秀なアーチストを育てることに成功しても、かんじんの自分自身が置き去りにされてゆくという孤独感。これじゃあ、これまでやってきた「水商売」とちっともちがわないではないか。酔客の嬌声にかこまれながら朝から晩までシェイカーをふりフライパンをゆすっていた、あの酒場稼業と同じではないか、そう思いはじめたのです。
じっさい、私にとっての酒場商売は、じつに自分の心を虚しくさせるものでした。私が手造りでつくった小さなマッチ箱のような店に、ひとときの憩いをもとめてやってくる善良なお客たち。仕事の疲れを一杯の水割りで癒し、客仲間との歓談で明日への英気を養う人たち。毎日毎日、私はそうしたお客に満面の笑顔をふりまき、「ありがとうございます」「また明日どうぞ」の声でかれらを送り出していたのです。
気分屋でわがままな私は、そういう客商売にいたたまれず、つい不機嫌な顔をしてしまうことがあり、
「あなたは本当はこういう商売にはむいていない人なのかも」
と、店を開業した頃に結婚した妻からいわれたものでした。三歳年上の妻は北海道の小さな海辺町の商家の娘でしたから、つねに愛嬌のある笑顔を客にむけて働く商売上手な女。店での評判も上々で、そんな彼女からみたら私はとても及第点の酒場のマスターではなかったでしょう。
私はそんな「水商売時代」の自分をふりかえるとき、どこにもながれつくことのない木片のような自分の姿を思い起こします。
そうです。私はそうした酒場経営で成功はしましたけれど、それは自分の努力や労苦によって得られたものではなかったのです。ただただ、あの時代の日本のすさまじいまでの経済成長の波が、二十歳ちょっとの怠慢男を成功へ成功へとおしながしていってくれたのです。私はまさしく、そんな時代の激流のなかにただよう一片の木片でしかありませんでした。そして、その一種の浮遊感とでもいっていいじつに感覚は、若い表現者たちを養成する「キッド・アイラック・アート・ホール」を営むようになってからも、少しも変わらずに私の心身を占領しつづけていたのです。
今になって思うのですが、亡くなった女性秘書Mさんとかわした「約束」とは、私がそんな頼りない感覚から一日も早くぬけだして、本当の意味での「適職」をみつけることだったのではないでしょうか。
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