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Nさんへ。
じっさい、祖父上のような「宮大工」という特別な職業をもっている人たちばかりとかぎらず、戦争にかなかった人々、幸運に恵まれて戦場から生きて還ることができた人々の、戦死した同胞に対する負い目意識には、まわりの者が考えるより何倍も根強いものがあるようです。
たとえば、私の「無言館」を訪れる人々のなかにも
「たまたま自分は生きて還ってきたが、優秀な仲間をずいぶんたくさん戦争でうしなった、この美術館の作品をみていると、生きて還った自分が責められているようだ」
と漏らす戦争体験者もいますし
「戦後何十年、こうやって息災に生きてこられたのは幸せだが、それもすべて死んだ戦友たちのおかげだと思っている。無念の死をとげたかれらの心情を思うと、ただただ申し訳ない気持ちでいっぱいだ」
という人もいます。
また、これは最近「無言館」の出入り口に置かれている「感想文ノート」に書かれていた文章ですが
「画学生の遺作や遺品をみていて、将来の祖国のために死んでいった画学生たちの胸中に思いをはせた。そして、かれらはけっして、今のような日本をつくるために死んだわけではないだろうと思った。日本人のだれもかれもがモノと金を追いかけ、人と人との関係が稀薄になり、国を愛する心や、自然や伝統を愛する心がどんどん失われている今の世の中をみたら、画学生は自分たちは何のために戦死したのだろうと嘆くにちがいないと思った」
そんな自戒をこめた言葉を綴っていた人もありました。
おそらくこれは、今の日本人に共通している戦死者への思い、先の戦争に対して抱いている何ともいえない罪の意識であるといえるのでしょう。
もちろん人によってそれぞれ「歴史観」や「戦争観」はちがい、同時に「戦死者」に対する考えもちがうでしょうから、かならずしも「無言館」を訪れた人たちの語る感想がすべて正しい、というわけではないのですが、大なり小なり、私たち戦後の繁栄を生きた者たちには、先の大戦で戦死した人々に対する、もってゆきばのない忸怩たる思いがあることはじじつのようです。
想像するに、Nさんの祖父上は「宮大工」という日本の伝統建築を担う役目の人だったために、よけいに戦死した人々に対して「生きのこった日本人」の意識を強くもっていたのではないでしょうか。
じつは、先ほどから祖父上の「宮大工」という職業にひどくこだわったお便りをめているのには、こんな理由があるのです。
これまで一どもそのことにはふれてきませんでしたが、じつは私の祖父も「宮大工」だったのです(しかも、Nさんの祖父上とほぼ同時代の!)。そのことはわが実父であり小説家である水上勉が、いくどとなく自著のなかに書いてきたことですので、Nさんもすでにご存知かもしれませんが、水上勉の父水上覚治は福井県若狭地方で長く「宮大工」をとしてきた人でした。もちろん「宮大工」とはいっても雪深い山里で一生を送った人でしたから、Nさんの祖父上のような専門の宮大工ではなく、注文さえあれば棺桶から風呂桶までつくるといった万能大工だったらしいのですが、主に従事していたのは福井地方の伝統工法による民家の建築でした。
近年になってその水上覚治のつくった古民家が、何と台湾に移築されることになったのをご存知でしょうか。
この台湾への古民家移築の話は、十七年前に起こった阪神大震災のときに結成された神戸のボランティア・グループが、阪神の震災の経験をその後起こった台湾地震にも生かしてもらおうと、同被災地を訪ねたことがきっかけとなって実現したのだそうです。
たとえばそのニュースは、二〇〇八年十一月の「毎日新聞」関西版にこんなふうに報じられています。
阪神大震災で甚大な被害を受けた神戸市長田区の復興まちづくりを学ぼうと五日、台湾台北県淡水鎮(市)の行政関係者ら約二十人が、同区の御蔵地区を訪れ住民らと交流。同地区の市民団体「まち・コミュニケーション(マチコミ)」の仲立ちで、作家水上勉さんの父である水上覚治氏が建築した古民家を移築することになっており、手を携えて復興に当たっていくことを誓った。
台北市郊外の保養地として知られる淡水鎮には、日本と台湾の学生らの共同作業で、水上さんの父で大工棟梁だった覚治さんが、大正時代に建築した福井県おおい町の木造古民家を移築する。温かい木造空間がお年寄りらに愛されていることを目の当たりにした蔡鎮長は「古民家には何世代にもわたって受け継がれた文化が息づいている。若者が手を携えて復元し、優しさとぬくもりを台湾のまちづくりにも受け継いでいきたい」と話した。
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