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Nさんへ。
相変わらず冗長で退屈な、いつ終わるかわからないようなこの手紙に、ちょっぴり辟易した表情をなさっているNさんの顔がうかびますが、どうぞもう少しお付き合い下さい。
はてさて、けっきょく私が何をいいたいのかといえば、表現者は「処女作」から出発し「処女作」に帰ってくる、あるいは帰ってこようとする旅人なのではないかと考えるのです。たぶんその点では、物書きも音楽家も演劇家も、自己表現をめざす人間はすべてそうであるといっていいのでしょう。
これまで七十冊余の本を上梓しながら、未だ半アマチュア作家の域から脱しきれない私も同じで、ここ数十年、三十九歳で書いたデビュー作に追いつこう、追い越そうとペンをとってきた気がします。しかし、結果的には今もその夢は叶っていないわけで、私はこれからもずっとそうした気持ちで原稿紙にむかってゆくしかないのでしょう。それは、追っても追っても追いつけない、はるか遠くにみえる「逃げ水」を追うような日々といっていいかもしれませんが。
Nさんもそんな孤独なツライ旅をつづけている画家の一人なのだと思います。
Nさんにとって、二十歳時のご自身の作品は「やがて帰ってゆく」場所であり、かならず「帰りたい」場所でもあるのです。それがぎゃくの意味で、ご自分の若い頃の作品に対する愛憎を増幅させ、「二どと見たくない」「できればその絵の前に立ちたくない」という感情をもつのらせたにちがいないのです。そういうふくざつな心境が、私には痛いほどわかります。
たとえば、Nさんと同じ青森を故郷にもつ不世出の版画家棟方志功なんかにも同じことを想像します。
棟方志功といえば、青森の鍛冶屋の子に生まれ、ゴッホにあこがれて二十代初めに上京、昭和三年頃から師平塚運一にいて木彫を学びはじめ、やがて日本創作版画会展や春陽会展に出品して才能を開花、おなじみの「大和し美し」などで「棟方版画」とよばれる原始的なエネルギーにみちた傑作を多産し、日本の近代版画史に大きな足跡をのこした人なのですが、その志功もまた青森の風土から旅立ち、青森の風土に「帰ってこようとした」版画家なのではないかと思うのです。
私は個人的には、志功の晩年のあの極彩色で表現された「ねぶた」や「凧絵」をモチイフにした作品──よく知られる「道標の柵」「恐山の柵」「牛若丸と弁慶」などよりも、深く重い白と黒との対比だけで表現された「の柵」や「津軽海峡の柵」等々の初期の作品のほうに何倍もの魅力をかんじます。なぜならそこには、長いあいだ白と黒とに閉ざされた雪国青森を脱出した志功が、諸々を行脚したすえようやくに帰ってきた歓喜の姿があるからです。晩年の赤、白、黄等の原色で描かれた華麗な版画作品も見事ですが、それいじょうに白と黒の重厚な単色画面にうかびあがった民衆の営み、雪国の人々の喜怒哀楽の図にこそ、「志功の真骨頂」をみる思いがするのですが、どうでしょうか。
そう、前にもいったかもしれませんが、表現者が初期の作品に回帰するということは自らを生み育んだ風土への回帰をも意味しているのです。それは「自分がどこに生まれたか」「どこから歩いてきたか」をたしかめる必然的な行動でもあるのです。
私はここで、生前親しかった版画家の池田満寿夫と交わした会話を思い出します。
池田満寿夫は、戦前に旧満州の奏天で生まれ、幼い頃長野に引き揚げてきて地元の長野高校を出た男ですが、私はかれがニューヨークで暮らしていた頃から付き合いがあり、満寿夫は亡くなる直前まで何ども私の美術館を訪ねてきてくれていました。
これは満寿夫がニューヨークを引き払って日本に帰ってきて間もない頃だったと思うのですが、ある日
「マスオにとってはニューヨークと長野の、どっちが故郷なの?」
ときいたことがありました。
すると
「そりゃ長野だよ。これでもぼくは自分をれっきとした信州人だと思っているんだ」
マスオはそうこたえたのです。
「とくに、ぼくがニューヨークで若い頃つくった版画は、どこかにここ信州の影響をうけていると思う。人間や自然をみる眼の粘着力というか、集中力みたいなものは、信州人独特の気質が生んだものだと思う。その点で、ぼくは長野には足を向けて寝られない人間だと思うんだ」 |
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