|
Nさんへ。
しばらくごぶさたしておりましたが、今年の夏の炎暑をどうおすごしだったでしょうか。都会の夏の過酷さにくらべれば、信州での山ぐらしは数段ラクだろうと思われるのですが、それでも六十代後半となったわが老体には、連日三十度をこえる暑さはやっぱりこたえるとしかいいようがありません。
加えて、今夏の「無言館」に対するマスコミの取材は、例年にくらべて何倍もヒートアップした感じでした。館主である私へのインタビューや新聞取材も絶えることなくつづきましたし、先日はとうとうラジオの「終戦特集」とやらのゲストにもひっぱり出されました。もちろんそうやって「無言館」がメディアに取り上げられれば、それだけ館の存在が全国の人々に知られるチャンスになるわけですから、館のとしては大変ありがたいこと。疲れているとか、忙しいとかいってマスコミへの対応をないがしろにするわけにはゆかないのです。
それにつけても、この毎年くりかえされる「八月十五日」(終戦記念日)を中心にした「戦争モノ」をめぐる取材競争には、少なからず辟易しているのもじじつです。
とにかく目につくのは、「戦争」という歴史的原罪に対する「悲惨」「残酷」「理不尽」といった視点のマンネリ化です。どの新聞、テレビも「戦争」によって「こんな悲劇が生まれた」「こんなに気の毒な犠牲者がいた」「こんな被害がもたらされた」という点を強調するあまり、そこに生きていたありのままの「一庶民」の姿に眼差しがとどいていないのです。あの戦時下にあっても、ごく平凡な生活を営み、何でもない平穏な日常をすごしていた人々がたくさんいました。「戦争」がおかした最も大きな罪は、そうした「ごく当たり前の人たち」までを戦地に駆り出し、あの苛酷な殺りくの場に立たせたということでしょう。
戦時下に絵を描いていた画学生などは、さしづめその「平穏」「平凡」の代表選手といっていいのではないでしょうか。
「無言館」にならぶかれらの絵をみれば、それがはっきりとわかります。ある若者は妻を描き恋人を描き、ある若者は父や母を描き、ある若者は可愛がっていた妹や弟を描いて戦地に発っています。そこにあるのは、ただ無心に自分のごく身近にいる愛する人々の姿を描いた、かれらの濃密な「制作の時間」です。それはけっして、己の運命を恨むとか、世の中の無常に抗うとか、社会や時代を批判するとかいったものではなく、ただただ自分の生きている日常の「平穏」を一心に描いていたにすぎないのです。
それはある意味で、かれらが「絵を描くこと」によって、どれだけあの時代に平静でいられたか、という自己表現のだったともいえるでしょう。だれもが戦争へ戦争へと駆り出されていったあの時代にあっても、かれらには「絵を描くこと」があった。どんなに「非国民」とよばれ「文弱」とよばれても、ピクリともしない画学生ダマシイとでもいうべきものがあったのです。
しかし、「無言館」を取材した新聞の見出しのほとんどは、そうした彼らの絵のもつ「平穏」に光をあてることなく、申し合わせたように「無念の涙」「未完の絵画」といったような論調に終始するのが常です。かれらを「絵を描いていた人間」として捉えるのではなく、単なる「戦争犠牲者」としてのみ捉えようとする傾向があるのです。つまり、「戦争」によって「絵を描けなかった」不幸な若者たち、という通り一遍の構図で捉えてしまうのです。「無言館」館主としては、そのことが何とも残念でならない。取材をうけた翌日の新聞をひろげて、こんなはずではなかったと歯ギシリすることがとても多い。
……ま、これ以上グチをこぼすのはやめておきましょう。何だかんだといっても、マスコミさんの協力がなければ、われわれ弱小の美術館は経営してゆけないのですから。しょせん美術館だって客商売。かりそめにも、かれらマスコミを敵に回すわけにはゆかないのですから…。
ところで、このところますます私の美術館の館員のあいだで、Nさんのはあがるばかりのようです。とりわけ、ウチの若い女の子のあいだでは、Nさんはなかなかのモテモテ画家であることをご存知でしょうか。
というのは、Nさんはいつも「信濃デッサン館」には来館されても、ほんの五百メートル隣にある「無言館」には一ども顔をみせられないからです。
先日もNさんは「信濃デッサン館」奥の野田英夫の作品をじっくりとごらんになったあと
「今日はちょっと先を急ぎますから」
といって、そそくさと自動車をおびになって帰られたというじゃありませんか。 |
|