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Nさんへ。
Tさんが「もう一度勉強し直してがんばりたい」「もう一度チャンスに挑戦したい」と語ったとき、その日の集いに参加していたH会長以下「Tさんの応援団」の人々のあいだから、「オウ!」というどよめきがあがり、パチパチという拍手が沸きあがったのはいうまでもありません。なかには眼をうるませて、Tさんのその決意表明に拍手をおくっている支援者もいました。
それはそうでしょう。
私たちは心の底のどこかで、そういうTさんの言葉を待ちわびていたといってもいいのです。とにかく、Tさんの落選はたった六百五十一票という僅少差だったのです。長野県内ではほとんど無名だったTさんが、新しい長野市政の改革を熱く訴え、一地方都市の未来と展望を語りつづけた結果、現職の保守系市長に対してほとんど五分五分の大接戦を演じたのです。私たち「応援団」が、いつの日かもう一度、Tさんに立候補してもらってリベンジを果たしてもらいたいと考えても当然じゃないでしょうか。
しかもTさんは、そんな自分の心境を七十余年前に亡くなった一人の日系画家の生涯に託して語られたのでした。野田英夫の絵のなかにあふれる「希望の光」を信じ、自分ももう一度故土長野の市政を担うチャンスをめざしたいと語られたのでした。
私はつくづく運命のふしぎさを思いました。何どもくりかえしますが、私が今から三十数年前野田英夫の遺作をさがしてアメリカにゆかなければ、当時二十六歳の青年ホテルマンだったTさんと会うことはなかったのです。もちろんTさんが私の遺作さがしを手伝い、野田英夫という画家についての知識をふかめることだってありませんでした。そして、めぐりめぐってこうして、長野市の市長選挙に立つTさんを私が応援することだってなかったはずなのです。
そうした意味からいえば、Tさんの「再起」の決意表明は、私たちのドラマはまだまだ終わっていないというだったのかもしれません。
私はTさんの決意表明に拍手しながら、同時にそれはTさんが私自身を叱咤してくれている言葉なのではないかと思いました。Tさんは自らが市政に再挑戦することを宣言するとともに、私にむかって、
「クボシマさん、あきらめるのは早すぎますよ。お互いもう一度がんばろうじゃないですか」
と励ましてくれているような気がしたのです。
二十六年間私を支えてくれた女性秘書Mさんの死、未納になっている税金や、「信濃デッサン館」の経営難の問題、かならずしも順調にすすんでいるとはいえない書きモノのこと……最近私は、自分が背負いこんでいる重荷にへこたれそうになっていました。いつのまにか私も六十歳代後半、後二年もすれば古稀をむかえる老齢者なのです。このところ、心のどこかに「もうこのへんで人生のを考えてもいいんじゃないか」とか「いっそ美術館の経営をやめてしまおうか」などという弱気の虫が頭をもたげはじめていたこともじじつでした。
しかし、Tさんの決意表明はそんな私の頬をはげしく打つものでした。Tさんは野田英夫の絵の底にある「希望の光」を忘れてはならない、自分たちも最後までその「希望の光」をみつめて前進してゆかねばならない、と教えてくれたのです。
私はそのとき、野田英夫にもう一つ、「ムーヴィング・マン」という絵があったことを思い出していました。
あれはたしか、野田の両親の郷里である熊本の県立美術館に飾られている作品だと思うのですが、「帰路」に描かれているのと同じ人物(野田英夫自身)をモチイフにしたグワッシュの小品です。植木鉢から蓄音機、椅子、テーブル、絵を描く材料の石膏像、丸や四角の額縁に入った自作の絵、などなど……生活道具の一切合財をひきずりながら、あてどない旅をつづける一人の画家。何だか絵をみている側の私たちまでが、その荷物の重さにくじけそうになってしまう絵です。でも画家は必死にその重さに耐えながら、自分を待っている未知の土地へと孤独な旅をつづけるのです。一歩一歩、明日にむかってあるきつづけるのです。そこからきこえるのは、「けっしてあきらめてはならない」「希望をうしなってはならない」という野田英夫の声であるといえるでしょう。
この「ムーヴィング・マン」のなかの野田英夫の姿が、どこか私やTさんの姿にも似ているといったらうぬぼれでしょうか。 |
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