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Nさんへ。
しつこいようですが、私の二つの美術館にとっていかに「靉光」が大切な画家であるか、なぜ「靉光」が二つの美術館をむすぶ存在なのか、もう少しくわしくのべさせていただけるでしょうか。
前にものべましたように、私の営む「信濃デッサン館」と「無言館」は、今やきわめて微妙な立ち位置におかれています。不謹慎なえでいうなら、あの頭部だけがつながって生まれてきた異形の兄弟、同じ母胎から生まれた別人格の兄弟のように、身体の一ヶ所だけに同じ血液がながれ同じ思考を擁しているという、両者とも「一人前の美術館」になりきれていない状態の美術館であるといっていいでしょうか。いってみれば、現在の「信濃デッサン館」「無言館」は、お互いの存在に対してをもっている美術館であるともいえるのです。
愛憎の距離というと何だかあまりに文学的な言い回しですが、要するに二つの美術館は「画家はなぜ絵を描くのか」「何のために絵を描くのか」という命題を、それぞれの立場からつきつけ合っているのです。
戦争によって若く命を絶たれた画学生たちの絵は、技術的にも造形的にもまだまだ未熟ですが、そこには人間が生きている「記録」がしめされています。画学生たちは、自分を愛した恋人や妻や、親兄弟や友、あるいは故郷の山や川を描くことによって、 自分の「生きた時間」を記録したのです。いわば「生存記録」をのこしたのです。それはある意味で、なぜ人間が太古の昔から絵を描く動物であったのか(たとえばアルタミラの洞窟の絵がそうであったように)、「なぜ人間は絵を描かねばならないか」の答えをしめす絵画だったともいえるでしょう。
ひるがえって「信濃デッサン館」にならぶ村山槐多や関根正二、松本竣介や野田英夫の作品は、自分たちが生きた時間を「どう描くか」で格闘した画家たちの絵です。
村山槐多は肺結核で死ぬわずか二十二年の生涯中、信州、千葉、大島、京都、山形を放浪し、そこで数多くの風景画、人物画をのこしています。「信州風景」「のらくら者」「尿する裸僧」。その骨太で奔放なタッチで描かれた作品は、明治いらい日本に導入されていたいわゆる「西洋画」の概念をやぶる、槐多が描きたいように描いている絵でした。西欧からおしよせるたくさんの美術潮流にながされることなく、ただひたすら「自分の絵」をめざしたのが村山槐多の作品でした。
同じ時代に槐多よりさらに二歳若く二十歳で亡くなった関根正二もそうでした。いかに「自分の絵」であるか、「自分にしか描けぬ絵」であるか、その一点に命がけに取り組んだ画家が関根正二でした。デューラーやレンブラントといった細密デッサンの巨匠の影響をうけながら、けっして自分を見失わず、のこされた「少年」や「三つ星」や「信仰の哀しみ」といった作品には、関根でなければ描けなかった独自のロマンのただよう絵画世界がひろがっているのです。
では、絵描きにとって「なぜ絵を描くのか」という問いと「どう描くのか」という問いは、どちらが大切な問題なのでしょうか。
私にいわせれば、それは同質の問題であるように思われます。「なぜ描くか」には、人間が本能的にもっている「描くこと」への欲求を果たす、という決定的な目的意識があります。同時に「どう描くか」には、他人が描いた絵ではなく自分が描いた絵をもとめる、という自ら創意や表現力の独自性を主張しようという意識があります。
せんじつめれば、この二つの設問は、画家にとっては一つの設問――「画家としてどう生きるか」という問いかけに通じていると思うのです。
すなわち、この世に「絵を描く」という欲求と才能をもって生まれてきた人間は、「絵を描く」ことによって生きようとするわけです。それは職業画家になってメシを食べてゆくとか、絵を売って一儲けするとか、展覧会に入選するとかいった話ではありません。「絵を描く」ということは「生きること」なのです。「なぜ描くか」は「なぜ生きるか」であり、「どう描くか」は「どう生きるか」という問いかけと同じなのです。
そして、その二つの設問に見事に答えを出したのが「靉光」という画家でした。
靉光は、国からの画布や絵具の配給を断って「戦意昂揚画」を描かず、「ドロでだって絵は描ける」といって、地を這うような貧しさのなかを生きた画家でした。また、苛酷な軍隊生活のなかにあっても、徹底的に軍部に抵抗し、最後まで「画家」としての衿持と誇りを失わぬまま死んでゆきました。そこには、靉光の「画家としてどう生きるか」という真剣勝負があったのだと思います。
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