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Nさんへ。
思えば、最初の頃差し上げたNさんへのお手紙で、私は自分の人生の、無目標なまま生きてきた半生の歳月を告白したものでしたね。
太平洋戦争が開戦した昭和十六年に生まれ(しかも開戦僅か三週間前!)、生父母の手から靴修理職人の養父母のもとへ養子に出され、高校だけは出たものの数々の職業を転々、ようやく自立して開業した水商売が運よく大当たりし、いわゆる戦後の高度経済成長の波にのってスナックを五軒も経営するまで成功、やがて芝居好きの血がさわいで小劇場の草分けともいえる「キッド・アイラック・ホール」を開業するいっぽう、趣味であつめた夭折画家たちの作品をならべた私設美術館まで信州上田に建設するにいたったこと。しかし、六十路をすぎても依然として、自分が本当にやりたい仕事、自分が心の底からもとめている仕事を得たという実感がもてないでいること、今もって本当の意味での「生き甲斐」をもてずにいることなどを、Nさんの迷惑をかえりみずウジウジと告白したものでした。
加えて、私は戦後三十年も経って、有名な作家になっていた生父の水上勉氏と再会。それまで築きあげてきた「窪島誠一郎」と、生父母に名付けられた「水上凌」のあいだで、いったい「自分とは何者なのか」という自問に苦しんできたということも書いたような気がします。三十代半ばのれっきとした妻子持ちの男が、とつぜん自分のアイデンティティを見失なってしまったことへの苛立ち。私はNさんに対して、そうした自分という人間の行方定まらぬ六十年の人生を報告するために、失礼をかえりみずこうしたお便りを出す決心をしたともいえるのでした。
そして……やはり今、私はNさんとの「一方的文通」をはじめてよかったな、と心から思っているのです。
なぜなら、私はNさんと交信することによって、Nさんもまた、私と同じように「本当の自分」をさがしている旅びとの一人であったことを知ったからです。
たしかに、世間がみとめる人気画家Nさんの作品には、みじんもそうしたカゲは見当たりません。そこに描かれているのは、幻想的な風景のなかに佇む可憐な少女の姿であり、大きな瞳を輝かせる童女の像であり、ときとして登場する男とも女ともつかぬふしぎな生きモノたちの群れです。全国のNさんファンは、そうした画面から放たれる何ともいえないファンタスティックな、万人を夢世界に誘いでもするような作品のに魅せられているといえるでしょう。
しかし、私にはその絵の底にあるNさんの「こうしか描けない」という心情がよくわかるのです。
Nさんは故郷五所川原で父子二代つづいた由緒ある宮大工の家系を絶ち切り、東京芸大にすすんであえて洋画家への道をえらびました。戦意高揚の施設「雄魂殿」の建設に参加したことによって、明らかにあの忌まわしい「戦争」に加担した祖父、その伝統と名声をひきついだ父。そんなN家の血統にしたがうことなく、自分自身が本当に納得する「創造」の道をえらんだNさん。
Nさんの初期の作品が、どちらかといえばグラフィック・デザインに近い、一種の劇画的な要素をもった絵だったことは多くの人が知るところです。もちろんそこにも、Nさんにそなわっている天賦の才能が発揮されていたことはじじつですが、正直、当時のNさんの作品には私はそれほど魅力を感じませんでした。しかし、今ふりかえるとNさんはあの頃、必死にご自身の居場所を探していたのかもしれない。どれが本当に自分がもとめる世界か、どれが自分の心を癒してくれる世界か、それを探していたのかもしれないと思うのです。
そしてそれは、どうしたらそれまでN家が辿ってきた「戦前」や「戦後」の呪縛からのがれられるかという、孤独なNさんの戦いだったように思われます。できるだけ「伝統」だとか「伝承」だとかいうものに縛られない、もっと自由に自分の魂を解放してくれる場所をもとめる旅。まさしくNさんの初期の作品は、そうしたNさんの漂泊の姿をあらわしていたようにも思われるのです。
そうしてようやく行きついたのが、現在のNメルヘンともいわれる幻想的な画風なのではないでしょうか。
それはある意味で、つねにい合う人間、自我を主張しあう人間、その結果互いを傷つけ血を流し合う人間、そういう愚かな人間世界から決別する、画家Nが獲得した唯一の方法だったのかもしれないと思うのですが、ちがっているでしょうか。 |
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