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Nさんへ。
ここではっきり申しあげることにしましょう。
私にはどうしても、Nさんの「どうもあっち(「無言館」のこと)は苦手で」と仰言った言葉が気にかかるのです。館員が「無言館にも靉光がありますよ」というすすめをさえぎり、そのまま帰られたNさんの行動が気にかかって仕方ないのです。
なぜ靉光の作品のならぶ「無言館」が苦手なのでしょう。なぜ「信濃デッサン館」の靉光をみることができて、「無言館」ではみることができないのでしょう。私にはそれが、どうしてもに落ちないのです。
たしかにNさんは、わが館の館員たちがいう通り、ちょっぴり「ヒネクレた画家」で、世間や社会の評判に左右されない人であるのはわかっています。それがNさんの人生観であり芸術観であることもわかっています。私だって、Nさんが「無言館」以上に「信濃デッサン館」を愛してくれていることには感謝しているのです。年間十万人近い来館者をむかえる「無言館」よりも、いつも森閑としている「信濃デッサン館」のほうが好きだというNさんに、心のなかで感謝の拍手をおくっている一人なのです。
しかし、です。
私は以前からふしぎに思っていたのです。東京での忙しい制作生活の時間をぬって、遠い信州まで足を運ばれ、村山槐多や関根正二、野田英夫や松本竣介に見入って帰ってゆくNさん。でもNさんは、一ども戦没画学生の慰霊美術館である「無言館」には足を向けようとなさらない。意識的に「無言館」を避けているようにさえみえる。そこには、私たちが考えもつかない何か別の理由があるのではないか、私は何年も前からそう思っていたのです。
私はつい最近、Nさんが評論家のYさんと対談なさっている、何年も前に出たある美術雑誌を手にとりました。他の調べものをしていて偶然手にしたその雑誌は、今ではすでに休刊になっている私の好きな美術雑誌だったのですが、私はそこに「今、私たちが求める絵画とは」というタイトルで対談されている、まだ三十歳ちょっと前という若い頃のNさんの記事を発見したのです。
それは、たしか藤田嗣治だったか宮本三郎だったか、戦争中の画家たちのことを話していたときだったと思うのですが、評論家のYさんから
「Nさんは戦争画のことをどうお考えですか?」
そんな質問が出ました。
すると、Nさんは
「ひとくちには答えずらいですね、でも、あの時代に描かれた絵は、どんな絵でも多かれ少なかれ戦争の影響をうけていたんじゃないでしょうか。国家から要求されて描かれた絵だけを戦争画とよぶのには、ちょっと抵抗がありますね」
そう答え、次にこんな言葉を口にされたのです。
「実は私の父の父である祖父は、身体が弱くて戦争にはゆかなかったのですが、郷里の青森でやはり宮大工をしていて、ずいぶんたくさんの知り合いの大工を戦争で失っています。ですから、祖父には何となく戦争に行って帰ってこられなかった仲間に対しての負い目があったようで、どんな建物をつくっても、これは自分の戦争画だ、といったふうなことをいっていたそうです。ま、これは父親からきいたことですが……」
「ほう、大工のおじいさんが自分の建てた家は戦争画だと?それはどういう意味でしょうか」
すかさずYさんが尋ねます。
「ええ、もちろん祖父は絵描きではありませんでしたから、現実には国の命令で絵を描かされるなんてことはなかったんですが、宮大工としては多少知られていた人間でしたから、戦時中一つや二つ、お国の関係の仕事を手伝ったんじゃないかと思うんです。祖父にとっては、そんなふうにから依頼された建物をつくることじたい、戦死した仲間たちを裏切ることになるといった意識があったのかもしれません」
「なるほど……」
雑誌の対談記事は、そこであっさりと別の話題にうつってしまっていたのですが、私にはその「戦争画」についてNさんが語った言葉がいつまでも心にのこりました。
なぜなら、Nさんはそれまでほとんど自分の肉親や生いたちについて語ったことはなく、私はそのときはじめて、Nさんのお父さんのお父さんもまた宮大工だったこと、つまりNさんの家系が親子二代の宮大工さんだったことを知ったのでした。まして、その 上が戦死した大工仲間に対して負い目をもち、お上からもらう仕事に抵抗を感じていただなんて、Nさんのファンだって知らない人がほとんどでしょう。
何だか私はそのとき、それまで抱いていたNさんへのイメージとはまったくちがう、新しいNさんを知ったような気がしてドキンとしたのでした。
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