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Nさんへ。
「たち」──甲子園球場の中央アプローチに設けられたNさんの壁画から放たれる、「生きること」への歓喜と祝福。人間がたがいに手と手をたずさえて生きる「連帯」の尊さ、大切さ。私はそこに、制作者のNさんの「生きることはすばらしい」「人間ってすばらしい」という力強い声をきいたような気がしました。
そして、ごく最近になってもう一つ、私をびっくりさせたことがあったのです。
何と、その「生命たち」を制作するにあたって、Nさんの助手をつとめたのが、一昨年亡くなった私の秘書Mさんの一人息子T君だったというじゃありませんか。
Nさんとの文通の最初のほうでのべたように、私は二年ほど前に、長年私の片腕として働いてくれていた有能な女性秘書Mさんをいました。まだ五十一歳という若さでの他界でした。Mさんを喪ったことが、どれほどその後の私の人生に失意をもたらし、公私にわたる仕事の渋滞を招いたか、それは縷々手紙のなかでのべてきた通りです。
そのMさんの長男T君が、Nさんが教鞭をとられているM美術大の油彩科の学生であることは以前から知っていたのですが、彼の所属するゼミの先生がNさんだっただなんて知りませんでした。しかも、今回の甲子園球場の壁画制作の助手として、Nさんが白羽の矢をたてたのがそのT君だっただなんて!世の中にこんなふしぎな巡り合わせがあるでしょうか。
T君にきいたところによると、T君は「生命たち」の下絵の段階から制作を手伝っていたそうですね。
「N先生はぼくに、画面のなかに思いきり若者らしさをぶつけてくれ、とおっしゃっていました。サッカーとか野球とか、スポーツをしている子どもたちを登場させたのもぼくのアイデアで、N先生はこれで野球場のモニュメントにふさわしいものになったと、とてもよろこばれていたようです。先生は最初、鳥や動物たちだけで画面をつくろうと考えておられたみたいなのですが」
とはT君の弁です。
なるほど、あの「生命たち」のもつ生命讃歌のメッセージには、T君のような二十代半ばの若者の「生命」も吹きこまれていたのですね。
また、おどろかされたのは、Nさんはずいぶん前からT君の母親がMさんであることをご存知だったということ。
T君の話によると、Nさんがそのことを知ったのは、ゼミがおわったあとの学生たちとの歓談がきっかけだったそうですね。
ある日、学内の喫茶店でNさんをかこんであれこれ話をしているとき、何気なくT君が
「先生の好きな美術館はどこですか」
ときくと
「そうだね、やっぱり信濃デッサン館かな」
とNさんは即答されたそうです。
「へぇ、あの美術館のどこがおすすめなんですか」
とT君がたずねますと
「うん、美術館としてはそんなに名作や名品が飾ってあるわけじゃないんだけどね、あそこの館長さんが面白いんだ」
Nさんは答えて
「あの人はいわゆる美術のプロの人ではないけどね、とにかく好きな絵を勝手にあつめてつくった美術館だから面白いんだ。時々首をかしげるような絵も飾ってあるけれど、それがむしろぼくなんかには新鮮でね」
いやはや、ホメているのかケナしているのかわからないようなクボシマ評をしてくださったというのです。
そして、そのときに思わずT君が
「じつは先生、ぼくの母親はそのクボシマさんの仕事を手伝っていたんです。つい昨年、病気で亡くなりましたが」
といいますと
「エッ」
Nさんは椅子からころげおちんばかりにおどろかれたそうです。
「そうか、クボシマさんがいっていたMさんというのは、きみのお母さんたったのか」
ただ、が理由でT君が「生命たち」制作の助手にえらばれたのかというと、けっしてそうではなく、そのことがわかるだいぶ前からNさんはT君を助手に指名しようと思っていたとのことです。T君はM美術大の油彩科のなかでもかなりの実力の持ち主として知られ、すでに何回かグループ展にも出品していて、早くから教授陣のあいだでは注目されていた学生だそうですから、母親と私の関係うんぬんとは関わりなく、NさんはT君にぜひ壁画の手伝いをしてもらいたいと考えていたのでしょう。 |
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