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Nさんへ。
たしかに「無言館」は戦地で亡くなった画学生たちの遺作や遺品をあつめた美術館であり、その不条理な時代がいかに多くの若い才能や志を奪ったかという事実を伝える「反戦平和」の美術館。しかし、それをつくった私自身は「戦争」をとくべつ意識したわけでも、とくべつ「戦争」の罪科を追及することに熱心だったわけでもなく、ただ絵好きの本能にかりたてられてかれらの遺作を収集する旅に出たにすぎない──そんなふうにいったら、たちまち理解不能におちいる人も多いことでしょう。
聞きようによっては、現在の「無言館」の成り立ちじたいにも疑問を呈しかねないこの言葉は
「そりゃ美術館の館主としてはあまりに無責任。あなたの美術館に戦争のことを考えないでやってくる人はいないのだから」
という反駁をまねくことうけあいでしょうし、
「それはあなたの一種の自己欺瞞ではないか。自分の『戦争』に対する不勉強、不認識をどこかでタナにあげて、まるで絵好きであることをそうした『戦争』軽視の免罪符にしようとしているのではないか」
といった指摘さえうける可能性があるかもしれません。
でも、私は、やはりこの一点を譲るわけにはゆかないのです。私と野見山さんは、けっしてかれらの絵を「戦争犠牲者」の絵だから収集したのではなく、「絵描き」としてのかれらの作品の消滅をふせぎたかっただけなのです。そのことは、そのことだけはわかってもらいたい。
なぜ私がそのことにこだわるかといえば、それが絵という「自己表現」の特質であると思うからです。もちろん私だって、戦争がいかに愚かな歴史的犯罪であり、どれだけ多くの人民に無為な殺りくを強いた不毛の行為であったかということは認識していますし、そうした時代の仕打ちさえなければ、今も息災で絵を描いていたかもしれない画学生たちの悲運を嘆かずにはいられないのですが、しかし、かれらが描いた絵そのものの存在価値は、やはり「戦争」の外で語られるべきものであり、あくまでも「戦争」と切り離して鑑賞されるべきものだという考えをひっこめるわけにはゆかないのです。それは、かれらが「絵を描くこと」にもとめた最大の目標が、あの戦争という時代から僅かな時間だけでも解放されたい、自由でありたいという切なる願いだったからです。
そう、かれらが「絵を描くこと」によってあれほど願っていた「戦争からの解放」を、あれから六十余年経った今を生きる私たちに侵害する権利などありはしない。というのが私の思いなのです。
ただ、これも野見山画伯とよく話すのですが、私たちがそうした画学生の絵の自立性を何より尊びながら、いっぽうではかれらが置かれていた戦争という時代の様相、その時代のなかでかれらがどんなことを考え、どんなふうに生きていたかという、いわばかれらの作品が描かれた背景の資料を過剰なほど数多く開示したことは問題アリでした。じつはそのことが、現在の「無言館」のネジレ状況を生んでいる大きな要因ではないかとも考えらえれるからです。館を訪れる人の中に、時折「絵よりも資料ケースの中にある出征時の写真や、戦場から家族や恋人にあてた手紙や、愛用していたスケッチブックや絵具箱をみて涙が出た」とか、「絵のよこにある画学生が戦死するまでの略歴、生前のエピソードを読んで胸がつまった」とかいった感想をのべる人々が多いのも、その表れの一つといっていいでしょう。
「そんなに画学生の絵を戦争と切り離したい、絵の自立性を重んじたいというなら、絵は絵として、絵だけで勝負すべきだったのではないのか。あんなふうなお涙ちょうだいのエピソードや、戦死直前に戦場から送られてきた家族への書簡までを披露する必要はなかったのではないのか」
そんな声がどこからか聞こえてくるようなのです。
もちろん、私も野見山さんも今ではそのことをおおいに反省しています。かれらの絵を「戦争犠牲者」の遺作という狭量な解釈のなかにとじこめてしまったのは、他でもない私たちが、「無言館」の開館時にきちんとかれらを一人前の「絵描き」として扱おうとしていなかったからではないか、かれらの作品を「絵描き」の仕事と認めるのなら、かれらの絵のそばに戦争の資料など置かなくてもよかったのではないかという後悔は、たしかに今も私の心の中にくすぶっているのです。かれらの絵が未だに「戦争」の呪縛から解き放たれないのは、そもそもそうした私たちの優柔不断な「無言館」の出発点に起因しているのではないだろうか、と。 |
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