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Nさんへ。
「かわける子らの水汲むように」「野づらをはしる孤犬のように」──凡そ三十三年前に「信濃デッサン館」を開館したときの、当時三十代半ばだった私の詩は、いかにも若々しいエネルギーにみちあふれています。当人である私がいうのも変ですが、ここには真一文字に自分が掲げた理想や夢にむかってつきすすむ、一人の若者の「明日への闘志」があって惹きつけられるのです。
それと、忘れてならないのは、当時の私には信州上田の豊かな自然の力がおおいに味方していたということです。
前にものべたように、私はそれまで生きてきた自分の人生そのものに疲れ果て、ただただ魂の安息をもとめてこの地にやってきたのでした。「自らの嘘をさばく」は、私がいかにそれまで本当の自分を押しかくし、真実の自分を偽って生きてきたかを告白している詩句です。また、「一滴の生」「一羽の鴉」というのは、ここ上田にやってきて初めてふれた樹々の輝き、風の音、鳥や獣たちの生の営みを表現したもので、私が信州の自然にどれだけ慰められ、癒され、「本当の自分」を取りもどすことができたかを表している言葉です。
そして、私はここで、私と上田をむすびつけてくれた詩人画家村山槐多が、大正三年に書いたという「信州日記」の冒頭を思い出すのです。
あらゆる退化を示したる過去を振り切って
自分はなつかしい信州へ来た。
自分の新生は始まるのだ、過去をすっかり棄てた、自分は五十枚の木炭画を作る事を
計画した。それらに自分は自分の藝術のあらゆる光を輝やかし表はすのだ。
それ等をして自分は自分の藝術の誕生たらしめる。
美麗なる自然は見よ 新しく冷めたい秋の空気の中に確かに実在している。
それ等から自分は呼吸しやう、
そして描く、
山脈を、樹木を、高原を、又人間を、堂々と描く、
チョークの箱には黒ダイヤの如きコンテが澄みかへつている、カルトンには紙が満
ちて居る。
これは何ど読んでも、強烈に私の胸をゆさぶってくる詩です。いや、詩というより、村山槐多が初めてこの地を訪れたときに発した、一種の「芸術宣言」であるといってもいい心情告白でしょう。
槐多は大正三年十七歳の夏、ボロボロの着物に縄のオビ、新聞の折りこみ広告を綴じり合わせた手製のスケッチブック、小さな絵具箱だけを携えて信州上田にやってきます。その頃従兄の山本鼎の父山本一郎が、上田の隣町の大屋(当時の神川村)で漢方医の医院を開業していたからです。槐多はしばし山本医院に居候し、千曲川の流れや噴煙たなびく浅間山、上田郊外のひなびた農村風景をいくつもの作品にのこすのです。
「自らの新生は始まるのだ」とか「美麗なる自然を見よ」とか「それ等から自分は呼吸しよう」とか、ここに綴られた少年槐多の作画に対する意気ごみは、上田の自然が言葉であるともいえましょう。「山脈を、樹木を、高原を、又人間を、堂々と描く」という一節には、信州の大自然に初めてふれた若き詩人画家の、あふれんばかりの「画家の決意」がうたわれています。
そして何より、槐多は上田にやってきたことによって、怠け癖のついた過去の自分ときっぱり決別し、まったく新しい自分に生まれかわりたいと切望しているのです。
おこがましい言い方かもしれませんが、槐多のこの決意は、昭和五十四年六月「信濃デッサン館」を開館したときの私の決意にも重なります。私もまた、ここ上田の大地に立ったことによって、それまでの過去を捨て、新しい自分になって生きてゆこうと自らを叱咤したのです。大正期の洋画壇を席巻した天才画家村山槐多と、戦後の繁栄をのほほんと甘受した商売男の私の決意が同じなどといえば、大方の人から失笑を買うかもしれませんが、一人の若者が大自然の営みと対峙して、自分の生き方の襟を正し、自らの足もとをもう一ど見直そうという気持ちになったという点では同じだと思うのです。
しかし(もうすでにおわかりだと思いますが)……槐多と私との圧倒的な違いは、そう、槐多が上田にやってきたのは画家としての「挑戦」であり、私の場合は現実からの「逃避」、あるいは「忌避」であったという点でしょう。
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