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Nさんへ。
「ぼくは信州人」「信州には足を向けて寝られない」──いやァ、おどろきました。あのニューヨーク近代美術館における個展で衝撃的な国際デビューをはたし、その後ニューヨークを拠点に制作をつづけるいっぽう、ヨーロッパ各地でもめざましい創作活動をしていた池田満寿夫が、私の前で「長野こそ自分の仕事に大きな影響をあたえてくれた場所」と告白したのですから。
マスオはこうもいっていました。
「けっきょく、ぼくは新しい世界を切りきながら、一番最初の自分に帰ろうとしているんだと思う。ぼくは満州で生まれて、終戦後に長野に帰ってきたわけだから、日本という国をちゃんと意識したのは十二歳からだった。いってみれば、人間としての感性が育てられた原点は、この長野の地にあるといってもいいと思う」
わたしはへぇ、と思いました。
ご存知の通り、池田満寿夫という表現者は、版画だけではなく陶芸、小説、映画……ときわめて多岐にわたる分野で才能を発揮した、いわゆるマルチ的な芸術家として知られているわけですが、そうした数々のマスオ作品のどこに「長野」があり、どこに「信州」の風土があるというのでしょう。
私は重ねてたづねたものです。
「でも、ぼくたち鑑賞者の眼からみると、マスオさんはむしろ日本から逃れたい、出来るだけ日本から遠く離れたところで仕事をしたいと思っているような気がするんだけど」
すると、マスオは
「いやァ、それはクボシマさんの誤解だと思うな」
きっぱりといいました。
「そりゃ、現在のぼくは、じゅうぶんに日本の文化を表現しきれていないかもしれないけど、ぼくが外国に行って仕事をしたいと考えることじたいが、日本という国、信州という土壌を人一倍意識している証拠なんだと思う」
今ふりかえってみると、このときの池田満寿夫はいつになく真剣な眼で私をみつめて、そういったのでした。
そうか、と私はようやく合点がゆきました。
せんだってのH市美術館の「画家たちの二十歳の原点」展にも出品されていたのですが、池田満寿夫は芸大受験に三ども失敗する少し前、長野高校の美術部に入った十六歳の時に、「橋のある風景」という油絵の小品を描いています。淡い茶褐色と暗緑色が入りまじった画面に、一見幾何学的な描線できざまれた陸橋が横たわり、その下にかすかに運河の流れがのぞいているという、のちの満寿夫の作品とはまったくちがった趣きをもつ風景画です。どことなく松本竣介ふうな(そういえばマスオは松本竣介が大好きでしたから)といっていいか、どこかに深い哀愁をただよわせたその作品は、やがて国際的版画家の道をのぼりつめてゆく一人の美術青年の、勇躍日本を旅立とうとしている「前夜」の絵だったといえるでしょうか。
ことによると池田満寿夫は、ニューヨークで制作していようとヨーロッパで個展をひらいていようと、心のどこかでああいう松本竣介ふうな世界、戦後の日本が荒涼とした焼け跡から立ち上がろうとしていた時代の風景を追いもとめていたのかもしれません。そしてそれは、敗戦直後に引き揚げてきた両親の故郷である長野の、幼い頃にみた祖国日本の地方都市の姿とも重なるものだったのかもしれません。
そういえば……、マスオとの会話をふりかえりながら、もう一人思い出す人がいます。
残念ながらこの人も昨年急逝されたのですが、幽玄な花鳥風月や、詩神のやどる山紫水明の世界を描くことで有名だった、私の敬愛する日本画家の毛利武彦先生がおっしゃっていた言葉が思い出されるのです。
これは毛利先生が長く教鞭をとられていた武蔵野美術大学の最終講義でのお話だったと思うのですが
「という言葉があるくらいに、いっぺん処女作で、最初の作品で立てた道標という所に、作家というものは苦労したあげくに、最後にまたそこへ戻っていく。なんていうかなぁ、出発から成長していって、また元に戻って、それで円環を描くっていうんだろうか、そういうことがあるわけで、大抵の人がそういう筋道を辿る」(講義録より)
そんなことをいわれていたのを思い出すのです。
「処女作がえり」──ああ、なんて説得力のあるステキな言葉なのでしょう。
棟方志功も池田満寿夫も毛利武彦も、あちらこちらを迷ったすえ、やはり自らの「処女作がえり」をめざそうとした表現者だったのではないでしょうか。 |
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