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中堀慎治



'Round About

第72回 中堀慎治

中堀慎治作品ですぐ思い浮かぶのは、金箔の背景にほのかに愁いにみちた瞳で、こちらを見つめる外国人女性像。日本的雅と西洋象徴主義的な趣が巧みに融合した独自の絵画世界。今回の個展は、以前から手掛けていた木彫のマリオネット、自身の顔から型取りし制作したマスクなどで構成。また、2009年から中堀が実行委員長として奔走した、世界文化遺産の京都二条城や清水寺などで開催した「観○光」展。それらに対する中堀慎治の思いを語ってもらった。

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●中堀さんの作品というと、首の細くて長い外国人女性で、耽美的な雰囲気をかもし出す、独特な絵画スタイルですね。
中堀:20代の頃、自分は何が描きたいのか分からなくて。たまたま真冬に、京都の広隆寺に行って半跏思惟像を見たんです。その時、自分の中の迷いがすっと消えていくような感覚を味わいました。対峙した時に、見る人の心の中のものが浄化されるようなものを表現できないかなと思ったんです。そこから、まず家内をモデルにしたんですが、だんだん描いていくうちに違うなぁと思って。それでモデルを使わないようにしたんですが、最初のうちは見ないで描くのってけっこう大変でした。もの凄くパターン化するし、いろんな部分で都合のいいように描いてしまう、そうなるとキャラクターを作っているのと同じですから。もう一度原点に立ち返って、自分が本来描くべきものは一体何だろうと突き詰めていったら、こういうものが出来上がった。最初は本当に形になるような、ならないようなものが多かったんですけど。そういう初期の頃のものは破り捨てて、何となく形になってきたなって思うものだけが残っています。
 
●初期の頃は、当時のギャラリーアート・ポイントで開催されたものが、一番大きい個展ですか?
中堀:そうですね。あの時は大学を出て数年経って、友達と3人で、銀座の貸画廊でやっていました。1回展か2回展の時に、たまたまアート・ポイントの岡田さんが見えられて、3号くらいのを買ってくれたんです。僕はそれを売る気はなかったので「売り物じゃないです」って言ったら「売る売らないを決めるのはこっちだ」って。「これはいくらなの?」「3万円くらいです」「わかった。じゃ、展覧会終わったら持ってきてくれる?」って話になって、持って行きました。それはそれで終わって、翌年同じ画廊でまた展覧会をやったら来てくれて、今度は30号と50号を買ってくれたので、同じ様に持って行ったんです。その時に岡田さんが「できて間もない画廊だけど、日本人を発掘して育てていきたいから、うちと契約しないか」って言われて。それからが僕のスタート、20代の後半でした。
 
   
   
●作品の背景によく金箔を使うのは何故ですか?
中堀:皆さんに色々言われますが誤解があって、金箔を金箔として使っているわけではなく、あくまでも絵の具のひとつとして使っています。箔は光を反射しますよね、光は朝・昼・夕方と全部違うので、ということは絵の中に、時空間というか、その時々の光を閉じ込めることができる。僕にとっては、変化する絵の具のような感覚です。使い始めたきっかけは、仏像に貼ってある箔が、お堂の光が漏れて反射したのを見た時です。光がだんだん奥まで入ってきて、冬だからすぐ暗くなって。そうすると仏像も、短時間でずいぶん変わって見えました。

●アメリカにいる頃はどんなことをしていましたか?
中堀:初期はアート・ステゥーデント・リーグにいて、デッサンがほとんどです。とにかく自分のデッサン力を上げたくて。アート・ステゥーデント・リーグのクロッキーの講座って、今でも鮮烈に覚えていますが、長い教室をモデルが行ったり来たりするだけなんです。その瞬間瞬間を描く。追いつかないのですが、頭の中に焼き付けて一瞬で描くんです、それをずっと続ける。脳から頭のフィルターを通って伝わってくるのが、瞬間で描けるようになる。それが僕の中で凄く新鮮でした。
 
●今回の個展について少しお話しいただきますが、我々がイメージする中堀さんの作品とは全く異なっていますよね。
中堀:ちゃんとした動機があるのです。僕の生きてきた過程には、常に死というものが隣にありました。幼いうちから周りに言われ続けていて、小さい頭で死ってどういうものかなって考えていたのですが、人形の動かない姿が死だと思っていたんです。そういうものが積層していました。あと高校生くらいの時にジャン・コクトーの映画を見る機会があって、その中でアルルカンの格好をしているのが、凄く印象に残っているんです。こういうものを具体的に作れないかなって当時から思っていました。でもなかなか、ものを作り出すと時間がかかるし手間もかかるし、だいいちどうやっていいか分からないし、始めようと思わなかった。それがたまたま、2〜3年前に作りたいと思って始めました。
 
   
●マスクを作り始めたきっかけは?
中堀:父が亡くなった時、僕は生後6ヶ月くらいでしたが、母は僕を産んだ後に、心臓弁膜症の手術をしました。当時、同じ手術をした36人中成功したのは2人だけ。僕の叔父も叔母も医者で、手術に立ち会ったのですが、本当に難しい手術だったと、物心つかない頃から聞かされていました。生存率は7〜8年だ、お前のお母さんはいつ死んでも不思議はないぞって、僕は4、5歳からずっとそう言われていたんです。だから、朝起きてすぐ、母親の元へ行って、母親が生きているのを確認するのが僕の日課でした。

子供時代の僕は、外向きは凄く快活で、いわゆる取り繕っている子供でした。なんでも平気な顔していたっていうか。一人っ子なのですが、ひとりになると凄く恐い。素の自分と外に向ける自分の二面性があって、それを形にできないかと思ってマスクを作りました。

マスクの原型は僕です。医療用の石膏包帯っていうのがあるんですよ。大学の時に怪我を治した経緯があって、面白い素材だなってずっと思っていました。マスクを作ろうと思った時に、色々な方法を試していたのですが、出来上がるまでの時間が短いのは何だろうと思って。木彫で彫るのは僕の手にはおえないし、乾漆みたいなものも、やり方を一から勉強して具体的な形になるかなと思った時に、乾漆に変わるものとして石膏包帯が使えないかと。型を取り一時間放置して、固まったところで外し、強度を上げる為に表と裏に樹脂コーティングをします。薄くですが、一番上は樹脂を塗った上に胡粉とアクリルを混ぜたものを塗っています。それに自分なりに目などを入れて表情を加えていく。同じ顔から取っても、それぞれがまるで違うものになりますね。
   
●中堀さんが実行委員長として、これまで2回開催してきた『観○光展』についてうかがいますが、まずこの展覧会名のネーミングは、どういうところから決まったんですか?
中堀:仏教用語の解釈として光は希望であり、未来であり、その光を見る為には自分達で努力をしなくてはならない、待っていても光は見えない。元々の観光の意味も、色々な場所へ出掛けたり、そこで自分は何者であるか、これから何をすべきか、ディスカバリーするのが観光です。自分の原点にかえる、それを見つける旅。『観○光展』をやろうと思った動機は、僕らは西洋文明の価値観で育まれてきたわけですが、それはいわば自分達で築き上げてきたものではなく、どちらかといえば無理矢理入ってきたものです。本来の東洋人の精神やものの考え方というのが、僕らのベースとしてある。その中で、どこかで綻びが出て、価値判断に無理が出てきた。現代人はある種浮遊していると思うのです。何を見ようとして、何を感じようとして、何処へ行こうとしているのか、それが凄く曖昧で、本来は自然と出来上がるものですが、混乱の際にいると思うのです。元々日本人が持っていた思考より、西洋教育を受けて育まれた思考の中でしかものを考えられない自分達がいるから、なかなか脱しきれないんだと思います。それはそれとして対極に、僕は何者なのだと、一体どういう文化がベースになって、我々が存在するのかと考えた時に、西洋とはまるで違うものの上に僕らは立脚している。そこをもう一度見直して、自分達はどこへ行くべきなのか、まして人の心はどういうものなのか、本来どう感じるべきなのか、精神的な大きな流れみたいなものを再確認する為の展覧会を作ろうと思ったわけです。
 
   
●『観○光展』の会場は、清水寺や二条城など、歴史ある世界遺産の場所です。画廊や美術館のような、作品展示ための空間ではない、時を経た圧倒的な空間です。作家にとってはかなりのプレッシャーであり、どうその空間と拮抗なり調和していくか、普段の発表とは全く異なる。
中堀:ある作家はその場所で負けて、打ちのめされる。ある作家はその空間をもの凄く上手に使う。それぞれが啓発されるんです。展示の為のスペースはある意味無機質で、ああいう歴史を経てきた建物は、そこに漂っている空気と対峙しないといけない。もの凄く恐い場所なんです。だからこそ、物を作る人間としてわくわくするし、ここで何を見せたいのか、深く考えますし、そこに見にきた人達には、言葉にならない何かを感じてもらいたい。そこが狙いです。僕らがやることは種を植えることで、そこで花が開かなくてもいいんです。10年後、20年後のどこかの記憶の中の1ページに残り、あの時ああいうものを見たなと、思った瞬間に花開くんのだと思います。
 
   
   
●今秋で3回目を迎えますが、今後の課題はありますか?
中堀:一度戻って、人間とは何なのか、何を考えて生きるべきか、この国の歴史について考え、ただ展覧会をこなしていくというスタンスではなく、繋げていけるようにしたい。それが京都仏教会が支援してくれる、一番の核心部分ですから。宗教の話ではなくて、実際問題として、人が人に対して優しくなれる、思いやれる、自分に対しても思いやれる、そういうものに芸術も近づいていきたい。長期戦略として、京都ビエンナーレを作ろうと思っているんです。そこに海外の作家達が出品して、日本に価値付けを求めるようになる、その中で物事がスタンダードになればと。日本がリーダーシップをとるとらないは別として、場が京都であるというのは凄く大事なことです。京都という土地や、育まれた文化や、寺院があることが凄く意味を持っていて、歴史や宗教感や、日本人の美意識を通して、アジアスタンダードが作られていく。分野も限定しないで、もっと大まかなカテゴリーの中で形作っていければと思っています。例えば伝統工芸の漆や木工や染色、そこから派生するものが多々あって、そういう人達が持っているものを、アジアスタンダードに取り入れていくことによって、大きな網をかけられるのではないかと。ただ今、僕らがやっている段階では、そういう場所を10日間貸して頂くのが精一杯の現状、まだそこまでの認知しかない。ある程度、1ヶ月か2ヶ月のスパンで会場を貸して頂ける様な、なくてはならないものになれば、本物になるでしょう。
 
   
(2011.3.3取材 協力/ギャラリー香染美術榎 俊幸  
 
中堀慎治(なかぼりしんじ)

1956年 東京都生まれ
1975年 神奈川県展出品'85
1975年 渡米 N.Y アート・スチューデント・リーグ在籍
1978年 多摩美術大学絵画科 日本画専攻卒業
1979年 秋季創画展入選 '85(東京都美術館)
1979年 インド取材旅行
1980年 春季創画展入選 '82 '84 '86(東京/日本橋高島屋)
1984年 三人展 '85 '86

 
1986年 第1回川端龍子賞展出品(和歌山県立美術館)
1990年 個展 '91 '92(Gallery Art Point)
1990年 東京セントラル美術館日本画大賞展招待出品
1991年 「クリエイション No,11」亀倉雄策(編)特集掲載(リクルート刊)
1992年 「豊穣の会」展 '93以降毎回(東京/夏目美術店)
1993年 第2回菅楯彦大賞展(倉吉博物館)
1995年 個展(日本橋三越/高知大丸)、「風靡の会」以後毎回(東京/夏目美術店)
1995年 画集刊行(求龍堂グラフィクス)
1997年 二人展(Space Untitled Gallery, New York/東急本店)
1999年 個展(日本橋三越本店/高松三越)
2002年 安楽寺 天井画襖絵制作開始〜'12(徳島/美馬)
2003年 個展(東京美術倶楽部)
2005年 北京アートフェア、アートフェア東京(Gallery Noda)
2006年 ソウルアートフェア、個展(名古屋/松坂屋本店)
2007年 個展(東京美術倶楽部)、七人のエスプリ展 '09(横浜・難波/高島屋)
2008年 個展(神戸・心斎橋/大丸)、「ヌーヴェルバーグ 今日の絵画展」(日本橋三越本店)
2009年 個展(博多/大丸)、観○光展(京都/二条城・清水寺)
2009年 「ざ・てわざ 未踏の具象展」(日本橋三越本店)
2010年 「不空」展(東京/ギャラリー香染美術)、 アートフェア東京(有楽町アートフォーラム)
2010年 「不空」展(中国/北京)、個展(名古屋/松坂屋本店)、個展(岡山/天満屋)
2010年 「ストーリー・テーラーズ展」(日本橋・横浜・名古屋/高島屋)
2010年 観○光展(京都/二条城・清水寺・泉涌寺・圓通寺)

現在 無所属

Public Collection
東京都三鷹市、徳島/安楽寺

 
  ●information
第3回「観○光」ART EXPO 2011
会期:2011年10月15日(土)〜10月24日(月)〈予定〉
会場:二条城、清水寺、泉涌寺
http://www.ab.auone-net.jp/~kcpa/kh2011.html