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高橋美江 絵地図師・散歩屋
窪島誠一郎「ある若い画家への手紙」−信州の二つの美術館から−
橋爪紳也 瀬戸内海モダニズム周遊
外山滋比古 人間距離の美学
坂崎重盛 粋人粋筆探訪
もぐら庵の一期一印
新刊・旧刊「絵のある」岩波文庫を楽しむ 文・坂崎重盛



 Nさんへ。
 色々なことのあった今年もすでに半年をすぎ、ここ信濃路にも早や秋の気配のただよう季節がきています。しばらくペンを執りませんでしたが、Nさんには相変わらず忙しく制作に追われていることと拝察します。
 何を今さらとわれるかもしれませんが、もうそろそろ、このNさんへの一方的恋文(?)にもピリオドをうたねば、と考えているところです。何しろこれまで一どもお会いしたことがなく、一言も言葉を交わしたことのないNさんに、あれこれネチネチと、自分の身の上話や身辺話、ときには押しつけがましい芸術論や戦争論までくりひろげたあげく、Nさんご自身の出自やお仕事についてまで勝手気ままな私見をのべさせてもらっているわけですから、Nさんにしてみたらとんだ災難であるともいえるでしょう。いつまでも、こうしてお忙しいNさんにご迷惑をかけることは良くないな、と私も思いはじめているのです。
 色々なことがあった、といいましたが、そのことも私の心境に大きな影響をあたえているかもしれません。
 何といっても、今年わが国が見舞われた最悪最大の凶事といえば東日本大震災でした。三月十一日午後二時四十分すぎに東北地方一帯をおそったマグニチュード九・〇の大地震は、三陸沖を中心に波高三十メートル以上という巨大津波を発生させ、死者二万人余、行方不明者五千人余という未曾有の被害をもたらしたのです。加えてこの地震は、福島第一原子力発電所に甚大な破損をおよぼし、今もなお収束することのない放射能汚染の恐怖に全国民がおびえているといった状態です。
 幸いなことにNさんの郷里五所川原は、それほどの被害をうけることなく、何かのインタビューでNさんも「ホッとした」とのべられておりましたね。
 しかし、それにつづけてNさんが
 「同じ東北に生まれ育った者として、今も苦しまれている被災者のことを思うと、体が引き裂かれるようにつらい」
 とのべられていた言葉が、何よりNさんの悲痛な思いを表していて心を衝かれました。
 その大震災が私の気分に影響をあたえたというのは、震災後、何となく「私」とか「自分」とか「個」とかいった物の捉え方に、一種の空しさのようなものをおぼえるようになったことでしょうか。
 ここ一年間つづいているNさんへの、この手紙についても同じ思いがわいてきたのです。
 私はこれまで、私自身の仕事に対しても、Nさんの仕事に対しても、「一人の表現者としてどうあるべきか」という視点で手紙をつづってきたのですが、最近、「一人の表現者」だとか「一人の人間」とかいった言い回しに少し抵抗を感じるようになったのです。それは「一人の人間がどう生きるか」よりも、ただひたすら「生きつづけること」、すなわち「どんなに不本意でだらしのない生き方」であっても、今日一日を精いっぱいに「生きつづけること」だけでじゅうぶんなのであり、そのことにこそ大きな意味があるのではないか、と考えるようになったのです。
 重ねていうなら、それは「一人の人間が生きる」ということよりも「人間同士が生きる」ということの大切さに気付かされたといっていいのかもしれません。
 震災直後の数日間、真ッ暗ヤミの避難所で肩を寄せ合い、一片のパンも一滴の水も口にせず、離れ離れになった親族、知己の名をよびながら生きつづけた人々。それは「人間は一人で生きているのではない」ということを私たちに教えてくれる姿であり、また「一人でなければ人間は生きられる」ということを実証してくれる姿でもありました。それにくらべて、ふた言めには「自分は」とか「私は」とか「個人としては」とかいった言葉をならべ、まるで自らの生命を己がのように語ってきた自分の傲慢さ、不遜さ。私はそのことに気付かされたのです。
 じつは、ついこのあいだ大阪の甲子園球場の中央アプローチに完成したNさんのモニュメント壁画の「たち」をみて、私はあらためて「人間の連帯」の尊さをかみしめるようになったのでした。
 私は寡聞にして、Nさんが何年も前からこの甲子園球場のモニュメントの制作に当たられていたことを知らなかったのですが、先日ぐうぜん関西に出かけたとき、大のNさんファンの方に連れられて「生命たち」をみてきました。
 幅七メートル余、縦五メートル余にもおよぶモザイク壁画には、無数の小さな蝶、鳥、昆虫、小動物たちがとびはね、踊り、歌っています。目をこらすとそのなかには、サッカーをやったり、野球に興じたりしている幼い子どもたちの姿もあります。周辺には、美しい花が咲き樹々がそよぎ、生きモノたちのそうした営みを祝福しているようにもみえました。それはまさしく、「生命たち」の歓びの図であり、「生きていること」への讃歌の図だったといってよいでしょう。
窪島誠一郎
略歴
1941年東京生まれ。印刷工、酒場経営などを経て1964年東京世田谷に小劇場の草分け「キッド・アイラック・ホール」を設立。1979年長野県上田市に夭折画家の素描を展示する「信濃デッサン館」を創設、1997年隣接地に戦没画学生慰霊美術館「無言館」を開設。
著書に生父水上勉との再会を綴った「父への手紙」(筑摩書房)、「信濃デッサン館」|〜|V(平凡社)、「漂泊・日系画家野田英夫の生涯」(新潮社)、「無言館ものがたり」(第46回産経児童出版文化賞受賞・講談社)、「鼎と槐多」(第14回地方出版文化功労賞受賞・信濃毎日新聞社)、「無言館ノオト」「石榴と銃」(集英社)、「無言館への旅」「高間筆子幻景」(白水社)など多数。「無言館」の活動により第53回菊池寛賞を受賞。

信濃デッサン館
〒386-1436 長野県上田市東前山300
TEL:0268-38-6599 FAX:0268-38-8263
開館時間:午前9時〜午後5時
休館日:12月〜6月毎週火曜日休館(祝日の場合は翌日休館)
入館料:一般 800円(700円)小・中学生 400円(350円)※( )内は団体20名以上

昭和54年6月、東京在住の著述家・窪島誠一郎が20数年にわたる素描コレクションの一部をもとに、私財を投じてつくりあげた小美術館。収蔵される村山槐多、関根正二、戸張孤雁、靉光、松本竣介、吉岡憲、広幡憲、古茂田守介、野田英夫らはいづれも「夭折の画家」とよばれる孤高の道を歩んだ薄命の画家たちで、 現存する遺作品は極めて少なく、とくに槐多、正二のデッサンの集積は貴重。 槐多は17歳ごろ、正二は16歳の春に、それぞれこの信濃路、長野近郊あたりを流連彷徨している。

無言館
〒386-1213 上田市大字古安曽字山王山3462
TEL:0268-37-1650 FAX:0268-37-1651
開館時間:午前9時〜午後5時
休館日:12月〜6月毎週火曜日休館(祝日の場合は翌日休館)
鑑賞料:お一人 1000円
入館について:団体(20名様以上)での入館をご希望の方は必ず事前予約を。

「無言館」は太平洋戦争で志半ばで戦死した画学生の遺作を展示する美術館。

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