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Nさんへ。
戦没画学生荒関芳一の姪御さんである今田百合子さんが、五所川原市郊外にある「雄魂殿」を建てたのはだれなんでしょう?という私の問いに、「たしか県内の大工さんたちが労働奉仕で……」とこたえられたとき、私は心のどこかで「やっぱり」と肯いたものでした。
私が想像するに、百合子さんのいう「戦勝会」とは、あの当時地方のそこかしこに誕生していたいわゆる銃後の「護国団体」のことで、防空演習の段取りや食糧配給、金属の非常回収の申告などを受けつける窓口となった民間組織の一つではないかと思います。戦況悪化が著しくなった昭和十八年頃からは、そういった「○○報国会」だとか「××皇国会」だと名づけられた隣組的な民間団体が競争するようにふえはじめ、その存在はいわば軍部の出先機関的な様相をおびはじめていたともきいています。たぶん「雄魂殿」は、地方の有力な素封家や地主たちが立ちあがって建設基金をあつめ、その国民一億総動員の趣旨に賛同した大工棟梁たちがで駆けつけてつくった施設だったのではないでしょうか。
そして、いつのまにか私はを抱いていたのです。
この「雄魂殿」の建設にたずさわった大工棟梁のなかに、Nさんの祖父上もふくまれていたのではないか、と……。
私は少し躊躇したすえに、百合子さんにたずねました。
「百合子さんは、この五所川原市から出られたNさんという絵描きさんをご存知ですか?」
「ええ、もちろんNさんなら知っていますよ。この土地だけではなく、今では全国的にも大変有名な絵描きさんですから」
「そのNさんのお父さん、おじいさんが父子二代にわたって宮大工さんだったことも?」
「そうですね、そのこともこの土地では多くの人が知っています。何といっても、この五所川原では、Nさんは郷土の誇る画壇の大御所とうたわれていますから、Nさんの家系が代々大工さんだったことも大抵の人は知っているんじゃないかと思います」
すると、そこまでこたえていた百合子さんは、そのときようやく私の問いの意味に気づいたらしく
「あ、なるほど……クボシマさんは、この御殿をつくった大工さんのなかにNさんのおじいさんもいたんじゃないかとおっしゃっているわけですね」
ちょっとおどろいた表情で私をみつめました。
百合子さんがおどろかれたのもムリはなかったでしょう。
あの幽玄とも牧歌的ともつかぬ、あどけない少女や空想上の動植物を詩情ゆたかにデフォルメする作品で知られ、今や日本国民のみならず世界各国でも高い評価をうけている超人気画家のNさんと、この五所川原郊外にぽつんと建つ古色蒼然とした戦争中の民間軍事施設「雄魂殿」とのあいだに、そんな「縁」があっただなんてだれが信じるでしょう。もし私が想像するように、Nさんの祖父上がこの「雄魂殿」の建設に加わった大工さんのうちの一人だったとしたら、あのNさんが描かれている平和と安息にみちた美しい幻想世界とは、あまりにそぐわない行動だったといわねばなりません。
私はその夜、百合子さんに送られて青森駅前のホテルにもどってきてからも、なかなか寝つかれませんでした。
私の頭のなかでは、Nさんが父子二代つづいた宮大工の道をえらばず、なぜ夢幻と慈愛にあふれた作品を描く洋画家への道をえらばれたのか、そのことが細ヒモをほどくようにわかってきたのでした。それはNさんが、自らの家系が継承してきた「戦争賛美」の血にきっぱりと別れをつげ、新しい「平和希求」の芸術をつくりだそうと決意されたからに他ならないでしょう。そう、Nさんはそうした父子二代の宮大工の道の延長上に、自らがもとめる「平和希求」の地平をきりひらき、そこから生み落とされた新しい絵画世界を追求してゆこうと決意されたのにちがいないのです。
そして同時に、いかにNさんがそのことに悩まされ、苦しまれ、悶々とされてきたかを想像したとき、私にはNさんの描く絵が、これまでとはまったくちがう性格をもつ作品に思われてきたのでした。
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