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Nさんへ。
数百年の歴史を重ねて今もなお、烈しく狂おしく燃えつづける「ねぶた」の灯明、長い冬にとじこめられて暮らす東北人の、いわば一夏の沸騰点ともいえる郷土賛歌のび──テレビのナレーションが語っているように、Nさんは菩提寺の天井にそうした郷土の歴史や文化の象徴たる「ねぶた」を描くことによって、ご自身の生命の根源である風土の存在、血縁の存在を再認識し、さらにこれからつづくであろう画家生活への決意をかためたともいえるのでしょう。
私はテレビの画面にうつるNさんの姿を拝見しながら、私という人間には終生こうした風土や血縁との信頼関係はあたえられないだろうな、と嘆息したものでした。今回菩提寺の天井を彩ることになった作品は、Nさんと故郷五所川原の自然風土との強靭な信頼関係があってこそ生まれたものなのではないか、それにくらべて自分には、一生涯こんなふうにまっすぐに自らの心身を預けられる故郷などあたえられないのではないか、と反芻したのです。
話が急に世俗なことになるのですが、ついこのあいだ私の住む上田の隣町である長野市で「市長選挙」がありました。すでに二期をつとめている現職保守系のY市長に対して、その再選を阻止すべく草の根運動の人々の推挙をうけて立候補した新人T氏が戦うという構図の選挙だったのですが、ひょんな事情から、何とこの私がT氏の応援演説に立つことになったのです。
ひょんな事情とは、T氏をかつぎあげた地元長野の大手書店チェーンの会長であるH氏が、たまたま私にとって大変お世話になっている人だったというものでした。まだ一人前ともいえないの私を、デビュー以来ずっと応援してくださっているのがこのH氏で、私は新刊書を出すたびにH氏の書店で講演会やサイン会をひらかせてもらっているのです。そんな恩のあるH氏から「ぜひT氏の応援演説をしてもらえないか」と依頼されれば、どうしても断りきれないというのが私の立場でした。
Nさんも肯いてくださると思うのですが、私のようないわゆる「文化」といった領域で仕事をしている人間にとって、一番敬遠しなければならないのが「政治」の世界であるといわれています。それがたとえ「左」であろうと「右」であろうと、少なくとも人間世界の真善美を追求する「芸術文化」に携わる者は、けっして「政治」に口を出してはならない。私たちのような仕事をしている人間は、つねに政治的中立と不偏平等の価値観をもたなければならないというのが、だれでも知っている不文律といえましょうか。
それが、こともあろうに「市長選挙」などという、甚だ「政治」の争いのなかに首をつっこむことになったのには、じつはもう一つ理由があったのです。
今でも思い出すのですが、H書店会長のH氏は最初に私に応援演説の依頼をしてきたとき、
「クボシマさんはTさんのことをあまりご存知ないでしょうから、ほんとうに申し上げにくいんですけど・・・・・ここは何とか、長野市が新しい市政を獲得するために、クボシマさんに一肌ぬいでもらいたいんです」
電話口でそういいました。
それに対して、私はこうこたえたのです。
「よろこんでおひきうけいたしますとも。じつは私はTさんを若い頃からよく存じあげているんですから」
じつはH氏が知らないだけで、私は今回長野の市長選に立候補したTさんのことをよく知っていたのでした。
あれはまだ私が信州上田に「信濃デッサン館」を開館してまもない三十年も前のこと。私は当時夢中になっていたある日系画家の遺作さがしのために、一年間に何どもアメリカに足を運んでいました。しかし、英語もしゃべれず地理も不案内、おまけに経済的にも余裕のある旅ではありませんでしたから、サンフランシスコからニューヨーク、シカゴへと、それは文字通りの放浪旅行だったのです。そして、そんな一介の旅行者の私に何くれとなく助けの手を差しのべ、いつ終わるともしれない無名画家の「遺作さがし」を手伝ってくれたのが、あの頃私より十歳も若い年齢ながら、すでにニューヨークの有名ホテルの支配人をされていたTさんだったのです。
運命とはふしぎなものです。そのTさんが私の住む上田の隣市の長野の市長選に出ることになったのですから。そして、そんな私とTさんの仲をまったくご存知ないH氏が、私にTさんの応援演説をたのんできたのですから!
「そういえば、Tさんのご出身は長野県の戸隠でしたね。お役に立てるかどうかわかりませんが、若い頃のTさんとの思い出話なら、よろこんでお話させてもらいますよ」
私がH氏の依頼にそうこたえたのは当然のことでした。
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