|
Nさんへ。
おかげさまで、というべきか、私の「T市長候補応援講演」はおおむね好評だったようです。もちろんその日は、H書店チェーン会長H氏がじきじきに指揮する「Tさん応援団」の総決起大会とでもいっていい大集会でしたので、が上にも会場のボルテージは最高潮、私のしゃべる演壇の後ろには「若きT氏を新市長に!!」「わが長野市政に新風を!!」と書いた大きな垂れ幕がさがり、講演台には極彩色の花束が二つも活けられていました。H氏の話によると、その頃の票読みではTさんは対立候補である保守系の前市長にかなり肉迫しているとのことでしたから、当日の「総決起大会」がおおいに盛りあがったのも当然のことだったのでしょう。
ただ、私の話はいわゆるふつうの選挙の応援演説とはちょっとちがった、たまたま三十数年前に米国ニューヨークでTさんと知り合った私のきわめて個人的な思い出話でしたし、いわばそれは私からみたTさんの横顔紹介といえるもので、「Tさんを次期市長に推す!!」とよびかける直接的な応援演説ではありませんでした。ですから、何とかしてTさんを新市長にしようと、日夜草の根運動に汗していた人々にしてみれば、その日の私の演説はいささか拍子ぬけの内容だったかもしれないのです。
じっさい、私の話が終わったあとには、
「クボシマさんの話でTさんの人物像はよくわかったけど、何だかTさんのナイーヴで繊細な性格は市長のような役職にはむかない、なんていってるふうにもきこえた」
といった声もありましたし、
「いったいクボシマさんはTさんの応援にきたの?それともできたの?話のなかに現在の長野市政のこととか、将来の長野の展望についての話がちっとも出てこなかったのが残念」
といった感想がきこえてきたこともたしかでした。
しかしながら、多くの人たちに共通していたのは、
「三十数年前に米国で知り合ったTさんとクボシマさんが、この長野の地でこんなふうな形で顔を合わせるだなんて、人生ってふしぎなものねぇ」
といった感想でした。
そりゃ、たしかにそうでしょう。
何どもくりかえすように、私がTさんと出会ったのは三十余年前の米国サンフランシスコ、そしてニューヨーク。日系画家野田英夫の遺作をもとめて米国内をウロウロしていた私に、率先して案内役を買ってくれたのが当時名門ホテルリッツカールトンに勤務していたTさんでした。そのTさんが、三十年の暦をへて、こうして郷里長野の市長選挙に出馬することになったふしぎな因縁。加えてその応援の講演者として、地元でやはり三十余年前から美術館を経営していた私という人間に白羽の矢が立ったというのも、めったにない巡り合わせといえたでしょう。
それともう一つ、私とTさんをむすびつけたのが、野田英夫という1939年に三十一歳五ヶ月で夭折した日系画家であったという事実も、考えてみればふしぎな縁といえました。
四季折々、「信濃デッサン館」をお訪ね下さって、館の一番奥の野田英夫の作品室に長くたたずんでお帰りになるというNさんには、今さらこの画家のことをくわしく解説することはないかもしれませんが、ご存知の通り、野田英夫は1908年米国加州サンタクララに生まれた移民の子どもで、三歳でいったん両親の故郷である熊本に帰り、十八歳のときふたたびアメリカに渡ったいわゆる「帰米二世」の画家でした。
今では信じられないことですが、あの頃は米国に移住してきた日本人は「ジャップ」「ジャップ」とよばれて迫害をうけ、レストランにも入れないという差別をうけたものです。とりわけ野田英夫のように、米国で生まれて一時期帰日して日本の教育をうけ、ふたたび米国に帰った日本人は「帰米二世」とよばれ、そうしたは容易に米国社会にうけ入れてもらえませんでした。知っての通り、米国はいわゆる「属地主義」といって、出生地がアメリカであればそれだけで「米国籍」があたえられ、日本においては父親が日本人であればどこに生まれようと「日本国籍」があたえられたからです。野田英夫はそんな日米冷却期の時代を、カリフォルニアからニューヨークへ、そしてニューヨーク郊外の芸術家村ウッドストックへと転々しながら、ひたすら画道にうちこんだ「二重国籍」の画家だったのです。
都会の片隅で働く貧しい労働者、靴みがきの少年の人なつこい笑顔と瞳、路上であそぶ黒人の子どもたち……あの孤独と憂愁につつまれた野田英夫の絵は、そうしたよるべなき画家の人生ぬきには誕生しなかったものでしょう。 |
|