高橋美江 絵地図師・散歩屋
窪島誠一郎「ある若い画家への手紙」−信州の二つの美術館から−
もぐら庵の一期一印
日野之彦
小滝雅道
遠藤彰子VS佐々木豊
長谷川健司・中野亘
松本哲男
やなぎみわVS佐々木豊
清野圭一
Jean Claude WOUTERS ジャン・クロード・ウーターズ
長尾和典VS鷹見明彦
わたなべゆうVS佐々木豊
カジ・ギャスディン・吉武研司
千住博VS佐々木豊
山本容子VS佐々木豊
諏訪敦×やなぎみわ
中山忠彦VS佐々木豊
森村泰昌
佐野紀満
絹谷幸二VS佐々木豊
平野薫
長沢明
ミヤケマイ
奥村美佳
入江明日香
松永賢
坂本佳子
西村亨
秋元雄史
久野和洋VS土屋禮一
池田学
三瀬夏之介
佐藤俊介
秋山祐徳太子
林アメリー
マコト・フジムラ
深沢軍治
木津文哉
杉浦康益
上條陽子
山口晃vs佐々木豊
山田まほ
中堀慎治

'Round About

第21回 清野圭一
2002年五島記念文化賞賞美術新人賞を受賞した清野圭一が、一年間の研修を終えて帰国した。平面による表現の可能性を探るためイタリア・フィレンツェに飛んだ彼は、異国の地で何を掴んだのか。6月30日から7月9日まで渋谷・Bunkamura Galleryで行われた帰国記念展会場で清野本人に聞いた。
※画像はクリックすると拡大画像をひらきます。   
   
   
 
■研修先をフィレンツェに決めた理由
二十代の時に、大学時代の教授とトルコのカッパドキア地方を回る機会がありました。そのとき、紀元前数百年前の遺跡に、普通なら博物館に飾られているような大きな大理石の彫刻がごろごろ放置されている光景を目にして、長い歴史を持つ遺跡に、たかだか二十数年生きている自分が向き合うことに、とても不思議な感覚を覚えました。また、その後にギリシアを訪問する 機会もあって、私は元々「時間の不思議さ」に興味を抱いておりましたので、いつかローマ時代の遺跡や、ルネッサンス時代の作品が、街自体や美術館に集中して残っているイタリアに行ってみたいと思っていました。また、西洋の美術の中でとても好きな作品がどれもフィレンツェのウフイッツィ美術館にあるということが研修先をフィレンツェに選んだ一番の決め手になったと思います。好きな作品の一つは、シモーネ・マルティニの「受胎告知」です。この絵は特にマリアの身体の表現が大好きです。非常に平面的な表現にもかかわらず、立体を表している美しい表現だと思います。後の二つは、ボッティチェリの『春』と『ヴィーナスの誕生』です。どちらも一枚の絵にかわりはないのに、そこに一瞬ではなく、時間の流れが留められている。まるで一枚の絵画に映画のような表現がされているように感じます。特に奇抜な表現をされているわけではなく、ただ美しい表現がされていることにかわりはないのに、ずっと眺めていても飽きない。一枚の絵の中で、長い時間的な流れを感じさせる物は少ないのですがボッティチェリのこの作品にはそれがあると思います。
 
 
■フィレンツェでの生活
フィレンツェでは主に美術館を見て回っていました。先ほどのウフイッツィ美術館には、4〜5回行きました。サンマルコ美術館にもプル・アンジェリコの素晴らしい作品がありましたし、そうやって絵画はたくさん見ていたのですが、現地で一番驚かされたのは所蔵されている彫刻の量でした。しかも、それが美術館だけではなくて、街の中にもあるんです。また、ローマでピエタを見たとき、本当に驚きました。西洋人特有の形態に対する集中力や描写力に大変な感銘を受けたからだと思います。とにかくびっくりして、わかりやすくいうと「あり得ない」みたいな驚きがありました。
 
  イタリアでは、美術作品を美術館で見るだけではなくて、生活の中で美術に接しているところが日本とは違っていました。絵画や彫刻という美術作品が、教会に壁画もありますし、彫刻も街中のあちらこちらにあって、生活のなかに消化されているんです。また、初めはつい絵画を表面的に見てしまいがちでしたが、研修先でイタリアの歴史を知るうちに、それぞれの作品が、当時の政治的な影響や、その時代の人々の生活に強く影響を受けていることが分かりました。また、ある時は風景のスケッチをしたり、手に入れた花をデッサンしたり、大作を制作して日本に送ったりもしていました。  
   
   
 
■余白の美
西洋では美術館や公共の建物、部屋の壁でも、凝った彫刻や絵が空間を隙間なく埋め尽くしています。空間を大事にする心は西洋と東洋も共通点していますが、あきらかに違うのは「余白」の扱い方です。絵画というのは西洋も東洋も違いがないものだというわれていますが、今回の展示では日本人や東洋人の感性にとって「余白」というのがいかに大切かに注目しました。その為、作品の余白をなるべく白くすることにしました。そうしてしまうと空間の表現としては難しくなるのですが、今回はあえてこだわって余白を広くとりました。

見に来てくださった人の中には、この絵を見てモネの睡蓮を連想された方もいると思います。もちろん構成する段階でモネのことは頭にありましたが、きっとモネが蓮を描くと、全面に絵の具を塗りながら描いて行くと思うんです。つまり、そこに「余白」なんていうものは存在しない。いま美術において西洋と東洋の違いはなくなってきているけれど、やはり「余白」というものは東洋美術において重要な意味を持っていると思います。紙の余白を使うのは、墨絵にもありますが、今回のように背景を顔料で白く平らに塗ってしまうと、描かれているモチーフが具象なので、そこで世界が完全に分かれてしまうんです。そこでなんらかのつなぐ要素が必要になってくる。それが文様です。
 
   
 
■具象と抽象の狭間で
画面の中に文様を入れるというのは以前から試みているのですが、海外において文様のような装飾的な要素は、造形的でないとして否定されています。ただ、日本画を制作するとき、平面でありつつ空間的な奥行きをつくってゆくなかで、描写よりやや抽象寄りの表現として文様を使うと、具象的な表現の蓮と何もない抽象的な白の背景をつないでくれるものとして、文様が有効な役割をしてくれるかなと思っています。西洋のように装飾的な要素を否定するのではなくて、それをうまく日本画の中に利用して、それを新しい試みにつなげていけるのではないのかと思っています。
 
   
   
 
■古代蓮の空間表現
今回、蓮のモチーフを選んだのは、蓮の東洋的なイメージに注目したのではありません。とても単純に蓮の花の神秘的なイメージや非現実的な美しさに着目して描こうとおもいました。その花を見た時、なんでこんなきれいな花が自然界には育つことが出来るのかという疑問を持っていて、ちょうど蓮を取材するのに良い場所をみつけたので今回のモチーフに選ぶことになりました。ちょうど、会期も梅雨まっただ中なのも意識しました。ここに描かれている蓮は、何千年かまえに植えられた種が、発掘によって自然に発芽してよみがえった古代の蓮です。そこにも時を超えた神秘性は不思議性を感じています。
 
  今回は単なる絵に注目するというよりも、昔の障壁画がそうであるように、空間を表現することを意識しました。日本画は元々空間表現的なものだったので、今は額縁に入っているのが絵だということになってしまいがちですが、元々の価値観に戻って日本画が総合芸術的な扱いがされるようにしたいと思っています。今回は、広い会場を使わせていただける機会を頂きましたので、会期が梅雨時ということもあったので、これからちょうど季節を迎える蓮で、爽やかな気分になっていただけるような空間を作りたいと思ってつくりました。そこに白い背景とかがかみ合ってくれると良いなと思っています。  
   
(2006年7月5日 Bunkamura Galleryにて取材)  
  
 

■清野圭一(せいのけいいち) 略歴
1963年 神奈川県横浜市生まれ
1987年 武蔵野美術大学日本画学科卒業
1989年 同、大学院美術研究科日本画コース修了
2001年 文化庁芸術インターンシップ研修員
2002年 五島記念文化賞美術新人賞
2003年 同賞によりイタリア、フィレンツェにて
2003年 一年間の研修滞在

●個展
1992年 銀座スルガ台画廊(レスポワール展)
1996年 日本橋 CTIウィンドウギャラリー
1997年 銀座スルガ台画廊
2001年 丸沼芸術の森展示室
2002年 ギャラリー毛利

●グループ展等
1987年 春季創画展 創画展
1987年 第23回神奈川県美術展 特選
1988年 上野の森美術館絵画大賞展
1989年 武蔵野美術大学創立60周年記念特別展
1989年 (新宿NSビル)
1989年 第1回起・点
1989年 (有楽町マリオン朝日ギャラリー)
1990年 第2回起・点(大分県 二宮美術館)
1991年 第3回起・点(麻布美術工芸館)
1994年 丸沼芸術の森展(上野松坂屋95、)
1994年 (96〜01、丸沼芸術の森展示室)
1995年 美の予感(日本橋高島屋)
1997年 日本画新世代8人展
1997年 (銀座 ギャラリー毛利)
1997年 4人展−岩絵の具、それぞれの表現−
1997年 (日本橋 田中画廊)
1998年 栴檀会(銀座 ギャラリー毛利 〜99、00)
1999年 橋の会(日本橋高島屋 〜02)
2000年 春季創画展 春季展賞
2001年 新世紀をひらく美(日本橋高島屋)
2001年 一樹会(ギャラリーミウラ)
2005年 HYO-SO展(日本橋高島屋)