高橋美江 絵地図師・散歩屋
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'Round About

第63回 秋山祐徳太子

1965年『岐阜アンデパンダン展』に自身を出展して以来、「ダリコ」などのポップハプニングと称する行為芸術を展開。その一方で、ブリキの彫刻家や、赤瀬川原平、高梨豊氏らとライカ同盟を結成し写真家としても活動する秋山祐徳太子。2度の都知事選は、政治をポップアート化するためだったとか。4月に開催されるアートフェア東京2009にも出展と、その衰えを知らない芸術活動について聞いた。

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●どんなお子さんでしたか?
秋山とんでもないお子さんだったみたいです(笑)。
私は、1歳の時に、父と兄を結核で亡くしてから、平成9年に母が亡くなるまで、母ひとり子ひとりで暮らして来たんですよ。その母が一番困ったと言っていたのは、私が4歳位の時に、映画館に行ったときのことです。靖国神社が映った途端に、母の膝の上に立ち「天皇陛下万歳!」と叫んで、観客に絶賛されたことがあったそうです。私は覚えていなんだけど、母は、恥ずかしくて恥ずかしくてしかたなかったと言っていましたね。あとは、サーベルが好きで、将軍みたいな格好をして、胸にビンの蓋をいっぱいつけて「陸軍大将だ!」なんてやる、そういう変わった子だったらしいです。
生まれたのは日暮里ですが、4歳頃に、ブリキ屋さんがいっぱいある新富町に引っ越しました。そこで、母がお汁粉屋を始めたんですが、芸者さんたちがしょっちゅう来て、私を、色んな所に連れて行ってくれました。芸者さんに育ててもらったようなもんですよ。
その時の芸者さんたちは、『歩くポップアート』として、私の『ポップアート』の原点。ブリキ屋さんの仕事を見ていたことも、後のブリキ彫刻に繋がっていますから、新富町は、私の原点みたいなものですね。


●学生時代はどんなことをしていたのですか?
秋山中学生時代は、とにかく成績が悪くて、普通科の日比谷高校だとか九段高校に入れそうもありませんでした。ところが、担任の先生が、正義感溢れる人で、色々良くしてくれて「図案屋になって手に職つけろ」と言ってくれました。それで、都立工芸高校図案科に入学することにしたのです。でも、デザインはあまり面白くなかったから、成績はブービー賞。応援団をやったり、空手部を作ったりして、机なんかをぶっ壊して、停学処分になったりしていました。そこを卒業して、東京藝術大学の図案科を何度か受けるんですが、結局ダメ。1次試験は受かるけど、2次試験で落ちるということの繰り返し。3度目の受験では、最終審査までいったのに、試験中に盲腸になりましてね。常に何かあるんです。この、東京藝術大学の受験番号1番に並んで、1番の受験票を3枚取ったというのは、有名な話で、私の作品にもなっています。
その後、仏映画『パリの空の下のセーヌは流れる』を見て、マチアスという彫刻家の殺人鬼が格好良かったので、彫刻家に憧れて、武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)彫刻科に入学しました。それも、受験に行ったら彫刻科の試験は終了していて、残っていた教員養成科の試験を受けるように言われて、「詩人マルメについて書け」という試験だったんですが、わからなかったので、ソラマメを描いて教室を出ました。それなのに、教員養成科じゃなくて、彫刻科に受かっていたんですよ(笑)。当時は、落ちた人っていうのが一人くらいしかいないような時代でした。そこでは、授業にはほとんど出ないで、勤務評定闘争や、警察職務法闘争など、反代々木系全学連を中心に学生運動を一所懸命していました。人になんといわれようと、彫刻よりも闘争の方に生き甲斐を感じていたのです。
 
●ブリキの彫刻を作ろうと思ったきっかけはなんですか?
秋山嫌いなんです、彫刻。粘土が臭くて嫌い、重いものが嫌い、刃物が嫌いとなると、もう普通の彫刻はできないんですよ。
それで、子供の頃に見ていたブリキ屋さんを思い出して、軽くて刃物を使わない、ブリキを使うことにしました。それに、ブリキは安いんですよ。今でも安い。あとは、はんだで簡単に作れますからね。
実をいうと、学生運動ばかりしていたので、ブリキで作った彫刻は、卒業制作の2、3点だけなんです。卒業制作の作品を、調子に乗って作っていたら、どんどん大きくなって、2メートル以上になったことがありました。それで、学校まで運ぶのに、大きすぎて、電車に乗せてもらえるかどうかという問題になったんですが、国鉄の労働組合に、私の学生運動のことを言って通してもらいました。その卒業制作のブリキの大バッタは、一発逆転の首席卒業となったんですよ。
 
●武蔵野美術学校卒業後は、企業に就職しながら芸術活動をしていましたが。
秋山実は、卒業後も過激な革命運動をしようと、労働運動を1年半続けていました。でも、そこで大喧嘩をして、その労働運動をやめて、東芝オーディオ工業株式会社に入ったのが30歳の時です。東芝で働きながら、当時の前衛芸術に刺激されて、ポップハプニングとか、やりたい放題していました。『ダリコ』は、通勤電車の中から見えたグリコの看板を見て思いつきましたし、ダリコスタイルで通勤したこともありました。でも、35歳になって、「どんなに貧乏しても、芸術で食っていこう」と決意して、会社を辞めたんです。

●そのポップハプニングの発想の元となったものはなんですか?
秋山当時のアメリカ美術、ポップアートに刺激されちゃったってことです。最たるものが、アンディ・ウォーホルのキャンベルスープの版画です。なんでこんなのが芸術になるんだよ?だけど、アメリカって面白いなあと思った。でも、ウォーホルと同じことをしてもしょうがないから、こっちは『動くポップアート』をするぞと思って『ダリコ』などをしたわけです。私のポップハプニングは、『顰蹙と誤解をかうことをやること』で、ずっと顰蹙と誤解をかっているんですけれど…(笑)。
 
   
●38歳の初個展以来、ブリキで彫刻を続けていますが、そのテーマはなんですか?
秋山初個展『虚ろな将軍たち』は、企画で銀座のガレリア・グラフィカで開催しました。その時に、朝日新聞の美術欄に載ったり、アラーキーが来てくれて「面白いねぇ、あんた」なんて言われたりしたので、「俺、いけるんじゃないかな、これからメチャクチャやってやろう」って思いましたね。そもそも、ポップキッチュが好きなんです。ブリキという安っぽい素材で、どうやって高く売るかがテーマです。その前に、私の使っている素材は、ブリキじゃなくてトタンじゃないのかという話もありますが…。ある展覧会の時に、有名な美術評論家が、「これは、ブリキじゃなくて、トタンだろう?俺が題名つけてやる」ということで、『そのトタンに』と題名をつけられたことがあったくらいです。でも、私が、使っているのはトタンなんですが、錫60%のはんだを使っているうちに、作品が錫メッキになることから、ブリキと言っています。ブリキは、錫でメッキした鋼板で、トタンは亜鉛メッキの鋼板ですから。本当は、『ブリタン』と思っているんですけど、ブリキって言ったほうが可愛らしいし、わかりやすいですしょう?それに、安っぽい素材なのに、位の高い男爵を作っているっていうのも面白いでしょう?
 
   
●40歳、44歳と、都知事選に立候補しましたが、それも芸術だったのですか?
秋山都知事選に立候補すること自体が、政治のポップアート化というアートなんです。
もともと私は、泡沫候補が好きでした。選挙法によく通ったなというようなオカシイ人がいっぱい出てきて、好き勝手に言いたいことをいうのを面白く見ていました。それで、都知事選で、バーンとやっちゃえと思って、立候補しました。
今思えば、都知事選をうまく利用して、うまくはまったなと思いますね。お蔭様で、その時に作ったポスターは、芸術として国立国際美術館などいくつかの美術館に収蔵してもらっているし、去年は、国立近代美術館や目黒区立美術館の展覧会に展示されましたから。おそらく、あの都知事選立候補がなかったら、今の私はないですよ。
私の憲法は、『バカバカしいことに大見得をきる』こと。そして、都知事選に出たりして、バカだバカだと言われているうちに、「本当はバカとは違うんじゃないか』と、世の中を思わせてしまうということ。恥かしい気持ちもありますが、そこでやらなきゃならない。それが、私の天命です。
 
   
●4月に開催されるアートフェア東京2009に出展するそうですが。
秋山ギャラリー「アートもりもと」から出展することになりました。きっかけは、ギャラリー「アートもりもと」に関係する写真家と酒を飲んでいる時に、「アートフェアをやればいいのに」と言われて、酔った勢いで「よし、アートフェアで売るぞ!」と答えて、ギャラリーにそのまま話をしたらパーッと決まりました。ギャラリー側でも、前に私の展覧会をしてウケタので、また何か一緒にやりたかったということでした。出展するのは、今までやってきたブリキ彫刻の、皇帝・男爵シリーズの20点位です。私のブリキ彫刻の集大成になるんじゃないかと思っています。
 
   
●御自身の活動の中で、特に印象に残っている芸術活動はなんですか?
秋山後にも先にも、都知事選しかないです。自分がメディアになっちゃったんですから。その次は、一連の『ダリコ』ですね。私は、ブリキの芸術家というより、『ダリコ』の芸術家といわれるほうがいいんですよ。

●4月下旬刊行の『恥の美学』について教えて下さい。

秋山「どういうことが恥か」を拡大解釈した、今までになかった本です。恥というのは、自分が恥をかくことで、他人の恥をかばうこともあるし、逆にかばってもらうというような助け合いでもあると思っているんです。恥をかくことは自尊心を失うことのように思っている人もいるかもしれないですけど、誰でも恥はかくんですよ。でも、かくなら新鮮さがないといけないし、恥に慣れてもいけない。というような、恥の効用話などを膨らませているところです。どうぞ、ご期待下さい。
 
●今後の活動のテーマはなんですか?
秋山高齢者ですから、『死ぬことをどうするか』をテーマに、毎日毎日を徹底的に、納得して生きようと思っています。そして、ブリキの彫刻だけでなく、絵も描きたいと思っています。とにかく、モノ作りは楽しいからやっているんです。だから、私にとって、芸術はエクスタシーみたいなもんですよ。このまま、健康で生きていったら、とてつもない芸術家になるんじゃないかなんて予感しながら生きています。
 
(2009.3.2取材/藤田礼子 協力/ギャラリーアートもりもと  
  秋山祐徳太子(あきやまゆうとくたいし)略歴
1935年 東京都生まれ
1960年 武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大学)彫刻科卒業
1965年 東芝オーディオ工業株式会社技術部意匠課入社
1965年 『アンデパンダン・フェスティバル』に自身を出品
1967年 『ダリコ』などのポップアート開始
1970年 東芝オーディオ工業株式会社退社
1973年 ブリキの彫刻による初個展
1975年 都知事選立候補
1979年 都知事選立候補
1994年 池田20世紀美術館『秋山祐徳太子の世界展』
1999年〜2003年 札幌大学文化部客員教授
 
赤瀬川原平、高梨豊と『ライカ同盟』結成。著書に『天然老人生活』(アスキー新書)など多数。
TOKYO MXテレビ『西部邁ゼミナール 戦後タブーをけっとばせ』(毎土11時〜11時半)レギュラー出演中。
 
●information
「アートフェア東京2009」アートもりもとブースにて出展
2009年4月3日(金)〜2009年4月5日(日)
東京国際フォーラム 東京都都千代田区丸の内3-5-1 http://www.t-i-forum.co.jp/
アートフェア東京HP:http://www.artfairtokyo.com/
 
 
  ■『恥の美学』2009年4月24日刊行予定!

4/29(水・祝)リブロ吉祥寺店(吉祥寺PARCO B2F)にて3:00PMよりサイン会決定!サイン本のご予約・お問い合わせは0422-21-8122(リブロ吉祥寺店)まで。