高橋美江 絵地図師・散歩屋
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山口晃vs佐々木豊
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'Round About

第12回 かたどられた「言葉」との対話
滝口和男(陶芸家)
vs
冨田康子(東京国立近代美術館客員研究員)

ふっくらとした丸みをもつ「無題」シリーズの複雑な造形と、愛らしい色絵を施したポエジーな器たち。いずれの中にも、滝口氏が土との語らいから紡ぎ出された「言葉」が込められている。 高島屋、三越そして現代工芸 遊において、相次いで新作を発表した滝口和男氏に、冨田康子氏がその制作について聞く。
※画像はクリックすると拡大画像をひらきます。   
   
  冨田:たて続けの個展ですね。何かプランがあって、同じ期間に絞ったのですか?
滝口:本当に偶然なんだ。あくまで結果としてだけど、3つの状態から作っていった。
冨田:3つの状態というのは?
滝口:「言葉」から導き出された3つのテーマみたいなものだね。
冨田:こちら(遊)は花器中心、三越では木に引っかけたりして、外部に支持体を必要とする造形。高島屋では、それとはまた違った大きめのオブジェでしたね。
滝口:高島屋の個展は、ずっと続けてきた「無題」シリーズの引き続きだから、他の2つとは別種だね。焼き物で何かを作るという大前提は変わらないけど、今はほとんど言葉遊びばっかりだね。
冨田:滝口さんの作品タイトルには、「無題」シリーズと、逆に、詩のようにたくさんの言葉を散りばめる場合と、二種類ありますね。
滝口:むしろ「無題」の方が「言葉」が多いかな。僕の中にいっぱいある言葉を吐き出し続けてもキリがない。だから、「無題」にしてるんだ。僕は「言葉」によって枠だけ設定して、後は作品を見た人それぞれの中で広げてもらいたい。だから作品そのものを投げかけて、どのように感じるか、どんな言葉を生み出してくれるのかっていう期待がある。……けれど最近、そのあたりがスベるね。
冨田:スベるって何ですか(笑)?
滝口:あまり話をし合わないみたいね、モノと。『これは一体何だろう』というところから、内面へ問いかける人が少ないのかな。鑑賞することで自分とモノとのきっかけは出てくるけど、自分の暗部まで表すような「言葉」が出てくることは少ないね。すごく解りやすいかたちを作ったつもりなんだけど作品に入り込んでいけない感じがする。
 
   
 






冨田:そもそも「無題」シリーズは、どのようなところから始まったのですか?
滝口:偶然のかたまりから始まったんだ。大学を一度辞めて、もう少し面白いことはないかと思って京都芸大に入り直した。入学してから『こんな世界もあったのか』って、カルチャーショックを受けたね。あらためて近所を見直してみると、三軒先は清水六兵衛さんだったり、幼稚園の幼なじみのお父さんが八木一夫先生だったりして、すごい作家ばっかりだったんだよね。
 それから何かと忙しくなってきて、卒業する前に中退してしまったんだけど、八木先生が『作品ができたら持っておいで』って言ってくれていたんだ。それで持っていったら『入選くらいするかもしれんな』ということで京展に出品することにした。タタラ板を張り合わせたペタンとしたモノだったかな。段ボールが立ったような形からなんとか膨らまないか、というところから始まったしごとなんだ。そうしたら、いきなり京都市長賞をもらって、賞金も10万円。すごいおいしい仕事だなと思っちゃったんだよね(笑)。
冨田:それがデビュー作だったんですね。考えてみると、膨らまそうという発想は、あまり焼き物的ではありませんね。それがかえって、作品のインパクトを強めたのかしら。
滝口:たまたま自分が得意だったということもあるし、だんだんと高さのあるものになったり、意匠がついてくるにつれて、急にいろいろと声が掛かるようになったんだ。
 
 
冨田:私が滝口さんのお名前を知ったときは、既にかなりの売れっ子でいらっしゃいました。
滝口:売れっ子っていうより、とにかくモノが売れてたね。当時は焼き物の問題とか何も考えずに、ただ土を延ばしてかたちを作っていたような気がするな。
冨田:考えない、というのは?
滝口:自分のしごとについて、評論家などが定義づけをしてくれる。作品に勝手に「言葉」を付与してくれるんだ。だから僕のしごとは単なるかたちの変容でしかなかったんだ。
冨田:その当時は、抽象的な形ばかり作っておられましたよね。最近の作品のような、何かの形をかたどったり、動物の絵付けをしたり、というのは、当時からプランがあったのですか?
滝口:ぜんぜん考えてなかったね。焼き物についてそれほど真剣に考えたことさえ無かった。だからこそ、自分の作品に

 
  「言葉」を与えられてきたことがとても重要なんだ。それらの言葉から、あらためて自分の作ったモノを見直すようになったね。
冨田:ひじょうに抽象度が高くて、質感もストイックだった作風が、突然、カワイイ絵付けの施された器になったのですから、けっこう驚きましたね(笑)。そして、作品タイトルも絵本のように愛らしく賑やかになりました。
 
   
  滝口:そういった傾向の作品を作りはじめたのは「101碗展」の頃からかな。全部違うかたち、違う色、違う技法、違うタイトルの茶碗を101個作ったんだ。なぜ飯碗なのかと言ったら、家庭の中で「MYお皿」って無いでしょ?同じお皿をみんなで共有している。でも、親父のご飯茶碗を使って、子どもがご飯を食べるなんてことはあまり無い。
冨田:たしかに飯碗は自分専用ですね。
滝口:ということは、器一つがより個人に近い存在になるんだ。個人と作品の関係ということが表現のテーマになったということですね。だから、タイトルに「あたたかなひは」とか「はなのたわむれ」という作品の「言葉」を当てはめてゆくようになったんだ。それからだね、「言葉」を先に考えてから作っていくように変わってきたのは。
 それまでのしごとをある程度は踏襲して、言葉を重ねていったしごとが「飯碗」だったとしたら、その後の「徒然草」や、「こくごじてん」の展覧会は、言葉を先に考えてそれをかたちにしていくしごとになったんだ。

冨田:「言葉」が先ということは、自分の中にある言葉というより、外にある「言葉」という意味ですか?「徒然草」なんて、たしかに滝口さんの内面からの「言葉」ではないですよね。
滝口:そうだね。内にある「言葉」から作っているのが「無題」シリーズなんだ。そっちはクドクドと自分の心の奥底から語り出している(笑)。「無題」シリーズだけ作り続けている頃は、朝起きてあくびをして、それから水を一杯飲んでから冷蔵庫を開けて、牛乳を注いでいると日付が気になって、ちょっと嗅いで一口飲んで、大丈夫だってわかるとコップをテーブルに置いて、『なんとなく仕事する気になれないけど、会期が迫っているし……』のような、クドクドした一連の流れが、かたまりになって表される。でも、その一つひとつの「言葉」には意味は無い。けれど僕の感覚は内在している「言葉」なんだ。そういったものは、なかなか伝わりにくいんだよね。