高橋美江 絵地図師・散歩屋
窪島誠一郎「ある若い画家への手紙」−信州の二つの美術館から−
新刊・旧刊「絵のある」岩波文庫を楽しむ 文・坂崎重盛
もぐら庵の一期一印
諏訪敦×やなぎみわ
中山忠彦VS佐々木豊
森村泰昌
佐野紀満
絹谷幸二VS佐々木豊
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山口晃vs佐々木豊
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'Round About

第69回 上條陽子
二つの体験 一変した世界観

上條陽子さんがパレスチナの子どもたちに絵を指導して10年になる。それまで「パレスチナ」とは、単に高校時代のクラスにつけられた聖地の名でしかなかったという。長らく忘れていたその名が今、一刻たりとも忘れることのない大きな存在となっている。絵は人間にとって生涯の栄養、時を経ても必ず力となると言い、過酷な生活を強いられる人々に今、この栄養、希望を送り続けている。作品と芸術家の立場についてきいた。

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◆紙による立体志向
●上條さんの大きな作品展では、92年の池田20世紀美術館と、94年の石川県立美術館での鮮烈な色彩の切り貼りの絵画や、同じく発泡スチロールに着彩のある人体などが記憶に新しいところです。今回の個展の主題「壁・鍵・窓」は、本来、人間を守ることを目的に生まれながら、一方で人間を隔離する、閉じこめるなど抑圧のための暴力装置ともなっています。そのような、人間が人間に対して行う愚挙を想起させる「壁」をはじめとするメインの出品4作は、すべて多様な材料をとりこみながらも、紙を主体にした作品です。ずいぶん紙にこだわり続けていますね。

上條:私にとって紙は多様性があるし、扱い易く、素材として面白いのでこだわりがあります。それに今さら木彫りや石彫はできませんから、紙で立体表現を試みているのです。今おっしゃった「壁」という作品にも百体ぐらいの紙で作った人の形が入っています。これは99年に出会ったパレスチナの現実を表していますが、日本人にしても同じように、自由であって自由でないようなこういう囲いの中にいる気がしています。
 病気をしたころ、私はキャンバス中心に制作していました。デッサンも結構大きな紙に描いていました。たとえば、100号の紙にペンでデッサンしてそれをキャンバスに写すのですが、そうするとデッサンの味わいが消えてしまうわけです。その時の絵の動きとかインクの垂れた染みとか掠れが面白くて、それを生かしたいと思っているうちに、だんだん今のように紙そのもので作品を作るようになっていきました。
 もうひとつは、キャンバスと油絵具は西洋から入ってきたものですが、自分自身の素材とは何なのだろうと考えた時、紙が合っていたのです。そのうちアトリエの都合であまり大きいのが描けなくなると、ますます切ったり貼ったりするやり方が面白くなって、ずっと続けています。
 
   
   
 
◆色彩の変化
●それはいつ頃からでしょうか?
上條:池田20世紀美術館の展覧会を終えたぐらいからです。作品の大きさについて言うと、以前は印刷屋さんの階上を8年間借りていて、その間に「黄金の間」や「まど」などという大作を山ほど作りました。そこを出なくてはならなくなって自宅に移ってからは小さい絵しかできないために、だんだん部分も小さくなって、それの集合体になっていきました。
 その頃は色をたくさん使っていたけれど、パレスチナとの出会いが始まり、その思いが強くなって、今度は色を使わず、心の思いを掘り下げるために黒一色に変わっていきました。本当はカラリストだから色を使いたくてうずうずしているのですが、黒になってからもう8年ぐらいになります。紙だと軽くて移動展示にも便利なのでケータリング絵画なんて言っていたのですが、黒を使うことにより、またその小さい形の断片を集めることによって内側からの思いが表現し易くなってきたことは確かです。固体のひとつひとつが集まって立体にもなり、それまで表現できなかったいろいろなこともできるし、結構面白がってやっています。
 「抑圧」は、私は刺繍ができないので描きましたが、刺繍です。昔、日本でも女たちが針仕事や機織りをしたように、パレスチナの女性は刺繍で生計を立てています。男も女も仕事がないので、NPOがそれを買い上げているのです。もちろんこの作品は抑圧されている人の思いを作品にしています。赤は血の色を表し、苦悩の意味が込められています。ジェンダー、女たちの慟哭です。
 
◆「頭で描く」から「足で描く」へ
●99年11月に初めて展覧会のためにパレスチナの地を訪れたのでしたね。86年、87年の2度にわたる大手術の前と後のとき以上に意識も作風も変わったようですね。
上條:そう、何も知らずにパレスチナに初めて行ってから、1年おいて何か役に立ちたいと画材を贈ることを呼びかけました。その反響が出始めて画材が集まりだしたのと同じ時期に、ちょうどレバノンから来日していた女医さんからの要請で難民キャンプの子供たちに絵を教えに行き始めました。今年の夏で10年になります。今回のこの個展のテーマはその難民の人たちの思いを作品にしました。
 実はパレスチナに行くまで、私はずっと芸術至上主義だったのです。社会との接点などまったく頭になく、自分との向き合いだけ、自分のためだけに絵を描いていたのです。それが行ってみて百聞は一見に如かずで、日本にいたのではわからないイスラエルという占領する側と、パレスチナという占領される側の関係がわかって、一気に世の中が広く見えるようになり、このことがそれまでの行き詰まりを解き放ってくれました。
 たとえば画家というだけではなくて、ボランティア活動をしている人とか、人権問題に関わっている人とか、さまざまなジャンルの人たちと出会う中で、そういうところにまで踏み込んで考えるようになりました。今ではそうした社会性が必然的に自分の生活の中に入ってきています。だから自分のことだけでなくいろいろな世界の人たちとつながったのです。たとえば世界中にある貧困や格差は、日本でもアメリカでもありますし、パレスチナを知ったたことがきっかけでさまざまなことが見えてとても勉強になっています。横につながらないと作品も広がりません。考えなくてはならないことがいっぺんにできてしまいました。
 
   
   
◆美術指導10年、蒔いた種実る
●レバノンにあるパレスチナ難民キャンプの子どもたちへの美術指導、地元相模原市内での子どもたちへの美術指導と多忙ですね。

上條:私にとって今、絵で活動できることはとても幸せです。パレスチナで10年間絵画指導を続けていやな思いをしたことは一度もありません。逆に恐れずに自由に無垢に絵を描ける子どもたちから学ぶことがたくさんあって、これが実に楽しいのです。なにかをよく見て描くということは自分自身のありさまを認識することなのだという気持ちを子供たちに届けたい。その一心で一所懸命やっています。
 昔は日本も同じでした。私たちの子どもの時代はみんな助け合って生きていましたから。比べてみて、日本はなにごとにおいてもあまりに型にはめよう、はまろうとしすぎる気がします。
 もし私の分身が5、6人いたなら、即、世界のあちこちに飛ばしたい気持ちです。何とかしたい所は数尽きませんが、自分はパレスチナ人支援を精一杯やっている、パレスチナに責任があるのだと言いきかせて、他の所は泣く泣く目をつむっています。
 近く、レバノンのユネスコで「はばたけ子供たち」という展覧会が予定されています。日本、パレスチナ、レバノンの子どもたちが参加します。その準備中です。
 相模原市内の子供たちに町の建物などを描いてもらったものと、パレスチナの子どもたちの描いた町を一枚の絵に合体させてひとつの町を作ろうという「破壊と再生」プロジェクトを以前やりましたが好評でした。
 
   毎年7月から8月にかけてレバノンに行きます。10年の成果ということで、12か所あるパレスチナ難民キャンプをはじめとして、ひとつひとつのキャンプの子どもたちが今度はどんな絵を描いて来るか、今から楽しみです。リサイクル・アートというのか、身近なペットボトルなどが作品の材料になることも知らなかった子どもたちが今、大きく育っているので、種を蒔いた証だと思っています。  
   
   
●今日のお話を聞く前、たまたま2月に「パレスチナそこにある日常」と題した高橋美香写真展でアパルトヘイト・ウォールを神保町のギャラリー福果で見たあと、1月から始まってちょうど昨日が最終日だったパレスチナの伝統服飾展を新宿の文化学園服飾博物館で見ました。写真家の伝えるパレスチナの現実と、深い伝統の産物とに接したわけですが、1948年5月のイスラエルの占領以来、すでに60年以上、3世代にもわたって子どもが絵を描くこともままならない生活を強制され続けているパレスチナ人の苦悶は、この日本に安住していては知る由もありません。怒り、何かしなければと始まった上條さんの初心を貫く行動力は、そのまま人間にとって美術とは何かといった本源のところを、身をもって示し続けているなと感じました。敬意を表して質問を終わります。今年もどうか気をつけて行って来てください。 
 
(2010.3.15 個展会場のギャルリー志門にて取材/常盤 茂)  
  上條陽子(かみじょう・ようこ)
1937年 神奈川県横浜市に生まれる(旧姓角羽)。
1954年 画家を志し清泉女学院を2年で中退。以後独学。
1978年 作品「玄黄・兆(きざし)」で安井賞を受賞。
1981〜82年 文化庁派遣芸術家在外研究員として1年間滞欧。
1992年 池田20世紀美術館で「上條陽子の世界展」開催。
1994年 石川県立美術館で「1993ー1994 群青に舞うー上條陽子展」
1994年 開催。
1999年 「東京からの七天使」展に参加しガザ、ラマラ、エルサレム
1999年 を巡回。パレスチナとの出会い始まる。
2001年 レバノンのパレスチナ人難民キャンプで子どもの絵画指導を行い、以後現在まで毎年続く
2006年 相模原市民ギャラリーで「厚紙平面大劇場」展開催。
2008年 かわさきIBM市民文化ギャラリーで「難民」展開催。
銀座を中心に各所で個展を開催している。女流画家協会委員。