第39回
岡村桂三郎
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河嶋淳司
戦国という時代背景にありながら、日本の絵画様式の一時代を築いた狩野永徳。そのデカさ、生きざま、緊張感。永徳の齢を越えたばかりの二人が、永徳の魅力を自由奔放に解き放つ。
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胸のすく豪快さ
河嶋
:永徳の大画は、緊張感があるんだけど、胸をすく豪快さもある。ふつうはこの豪快さがあると、緊張感はなくなってくるんですよ。これ以降の狩野派にはない緊張感ですね。それから、もちろん作品自体の大きさ。対面したときの圧倒的な迫力。日本美術史の中にここまで大きい絵ってそうはない。
岡村
:安土城や大坂城の障壁画も、焼失していなかったら迫力のレベルが違ったでしょうね。永徳の残された大画を見ると、作品の構造をそれまでのものとは別の次元にもっていっています。雪舟や元信らが考えていたような絵の概念をぶち壊した。永徳がいなかったら等伯も俵屋宗達もあり得なかったでしょう。それに江戸美術の原型も永徳が作った感じがしますね。
河嶋
:桃山時代は戦国の世であり、文化的に見ても史上まれにみる花のある時代だったわけで、そういう歴史的背景も含めて絵が楽しめる。私はそういうことにあまり興味を持たない人間なんです。どちらかというと絵だけを見たい。それでも、永徳とその周辺の人物たちは、歴史的背景を求めるようなロマンチックな感情を引き起こすものがあり、とても強く惹かれます。
岡村
:戦国時代なんて、本来なら絵を描いている場合じゃないでしょう。ふつうに絵を描くだけでも大変な時代に、それだけの大画を安土城や大阪城に展開できた。信長や秀吉にうまく取り入った政治力もすごいものだったのだろうと思います。僕はそういうのが得意じゃないから。
河嶋
:生きざまにも関わってきますね。極端に言えば、いつ殺されてもおかしくない時代です。例えば、尾形光琳の絵も非常に緊張感がありますよ。でもそれは、もっと芸術家の心に内在する、後世の私たちが知っているような緊張感です。永徳の緊張感は異質なんじゃないですか。時代を経た私たちが見ると、それが魅力なんですよね。かといって、それは恐ろしいということではなくて、どこか笑いを誘うようなところもあるんですよ。例えば「唐獅子図」。緊張感の中にどこか突き抜けた笑いを感じます。
岡村
:「唐獅子図」は、僕らが唐獅子をイメージするときの典型じゃないですか。例えば、宗達の「風神雷神図」もそうだけど、日本美術の中の絶対的なイメージを作った才能はすごいなと思います。一説によると、秀吉が合戦のときに、陣の後ろに置いたともいわれる。その前に秀吉が座っていたと思うと、そこまで演出するのは、歴史的事実だとしたら面白いですね。
河嶋
:そういう見かたができるってないじゃないですか。なんだかロマンチックに見えるんですよ。
岡村
:先ほど河嶋さんが言った緊張感。それを生み出しているのは、作品の構造にもあると思うんですよ。長谷川等伯や海北友松のような同時代の絵師に比べてものすごくシンプルです。絵に探るようなところがあまりないんですよね。こうだってことをズバッと言い切っちゃっている。有無を言わさない。命がけなんだよね、きっと。殺されるかもしれないところで描いているから。勝負としてやっていた気迫みたいなものを画面から受けます。
河嶋
:この人はそれができたんですよね。他の人はできなかった。それが胸のすく豪快さなんですよ。言い切る絵師というのは他にもいたと思いますが、この言い切り方ですよ。大見得をきって言い切る。そこが気持ちいいんです。
岡村
:信長や秀吉と対峙して描いていた絵師の気迫みたいなものなのもしれない。
河嶋
:永徳は五十歳前に亡くなっています。壮年期の、絵描きとしては充実した時期です。ここでスパッと切れている人生、これがまたいいんですよ。これがなおかつ永徳を豪快な絵師としている原因でもあるんですよ。
岡村
:江戸時代もここまでダイナミックなものってなかったはず。やはりダイナミックさで言ったら永徳ですよね。
河嶋
:徳川政権が安定してくると、ダイナミズムはなくなりますよね。政治的な状況が絵に与える影響があるのはいたしかたないかなと。それに江戸時代は鎖国をしますから、ダイナミズムからはどんどん遠ざかっていく。
流されない絵を求めて
岡村
:これまで永徳に対する意識ってそれほどなかったけど、僕の中に最近、なるべくフォルムを単純化させようという意識がある。もともと構造的なものに意識があったんで、改めて見ると、永徳がなにを狙っていたのかよくわかる気がします。例えば、障壁画や屏風としての物質感があると、そこに絵を描く意味が、いわゆる平面に描く意識と少し違うんですよね。支持体自体が立体物で、存在感があるでしょう。そこにものを描くという意識だと、物質そのものの持っている“意識”がすごく大事になってきて、がっつりしたものを描けば描くほど、単純化させることを意識的にしているんだよね。永徳はすごくアグレッシブで、がっつりしたものじゃないと飛んでいってしまうような意識があったんじゃないかな。僕もそういう意識があるから、なにかわかる気がするんですよ。
河嶋
:岡村さんがそういうのを求めているのはよくわかる。屏風や障子じゃないけど、岡村さんの作品はどこかオブジェ的なところがある気がします。
岡村
:最近作品のサイズが大きくなってきて、自分の肉体の限界だと思うところまできた。大きさに対する欲求が自分の中にあるような気がして、特に最近そうなってきたのは、時代に流されないというか、癒し系の絵は描かないぞと思って、アグレッシブに、攻撃的にものを作っていかないと、駄目だと思った瞬間があったんですよ。作家としての意思の強さが、作品の中に出てないと駄目なような気がしたんです。それから物質感が強くて大きくて重くて、というものにあえてこだわって作りはじめたんです。体力の限界までやってみようという気分で描いてますね。そういう点で、もしかしたら永徳と似てるかもしれない。
河嶋
:攻撃的というより、流されたくないということでしょう。
岡村
:そう。自分が画面と対峙するとき、それを自分で掌握していく、自分のものにしていこうという意識があるんですよね。大きさに対しては、そういうところがあると思います。ただ自分が絵と戦っているようなところは、描いている瞬間ずっとありますね。怪物を相手にしているような。
大きな絵の誘惑
河嶋
:日本画の材料は、もともと大きい絵にいく要素があるんですよ。この魅力は捨てがたいものがある。大作を描くのは、日本画家にとって一番やりやすいことで、最も自分を生かせる近道。でもね、加山又造が言っています。「日本画というのは大きい絵を描きたがる衝動がある。でもそれをせずに十号の絵でそれが表現できたらそれは最高なこと」。私はそれにチャレンジしてみる価値があると思う。確かに大作を描いたときはものすごく気持ちいい。絵を描いているという実感、そういう非常な快感。大きい絵を描いたことのある人間にはすごくわかります。それは全く否定しない。でも今の自分はそれだけでは満足できない。
岡村
:大きい絵を描かせる日本画の魅力って、具体的にどういうところだと思います?
河嶋
:私なりに思うには、画材が細かく描くよりも、ざっくり描くのに向いているところですね。大きい色面で描いたときの効果の大きさ。これは油絵よりも安直にできますよ。箔の色面、色彩の色面、そこでもって画面がもつ。ここにマチエールをつけるだけで下手すると絵はできてしまう。それだけで日本画だと言っている作家もいる。はたしてそれがよいか。安易にそこへいくことを私自身はセーブしている。後でまた反動がきて、何かをやる可能性もあるけど、今の日本画は大きいものばかりで、本当にそれでよいのかなっていうのはどこかにあるんですよ。
岡村
:例えば、天然群青をズバッと塗るとそれだけでいいもんね、日本画の顔料って。そういうのは確かにあるんですよね。
河嶋
:それを否定するつもりはまったくないんだけど、大きな誘惑があるということ。たまたま岡村さんが“癒し系”という言葉を使った。癒し系の絵というとマイナスなイメージで見てしまうけど、現代人はやはりどこか疲れていますよね。そういう人たちが、果たして大きな絵といっしょに暮らせるかどうか、スペースを共有していけるかとなると難しいんですよ。そのあたりが岡村さんとは違うポジションにいるところじゃないかと思います。自分の制作のアイデンティティって霞むくらいでいいんじゃないかと。
岡村
:僕はいっしょに暮らすような絵を描いている意識はないからね。
河嶋
:絵が日常から離れちゃっているんですよ。展覧会のためだけになると絵は大きくなる。
岡村
:展覧会というよりも、自分としては一つの装置としての絵画、つまり特殊な空間を作るための絵画ということをすごく意識しています。
河嶋
:それはふつうの暮らしをしている人に、展覧会場へ行って味わってもらいたいものだと思うんですよね。岡村さん自身も、そこに持っていってるんだと思う。
岡村
:小さい絵を描くときは、まったく違う意識ですからね。どちらかというと愛でる絵という感じで描いている。大きい作品に関して言うと、この絵の前で暮らしていけるのは何人いるんだろう、ということも含めて描いている。永徳の絵はいわゆる装置なんですよね。
河嶋
:装置でありながら、秀吉や信長にとっては日常だったんですよ。そこが魅力であり、異常なところなんです。永徳はこれが日常だった人たちのための装置を作ったという言い方が正しい。
岡村
:確かに異常な人たちだからね。安土城や大坂城って本当にどんなだったんだろう。そういう意味では、永徳ってインスタレーションというか、建造物の中に一つの空間を意識して描いた典型の人でもありますね。だからこそ、きっと面白いことをしていたと思うな。
河嶋
:それが残ってないのも永徳らしいですよね。
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10月20日発売218号より抜粋)
岡村桂三郎(おかむらけいざぶろう)
画家。1958年東京生まれ、1988年東京藝術大学博士課程修了。2004年芸術選奨文部科学大臣新人賞。現在、東北芸術工科大学教授。弊社HPアートアクセスにて
「岡村桂三郎のひとりごと」
を連載中。
河嶋淳司(かわしま・じゅんじ)
日本画家。1957年東京生まれ。86年東京藝術大学博士課程修了。2007年両洋の眼現代の絵画展河北倫明賞受賞。動物の色や形を自由にとらえた「アニマルグラフティシリーズ」で知られる。
●information
■特別展覧会 狩野永徳
狩野永徳の大回顧展。その代名詞である「唐獅子図屏風」「檜図屏風」「洛中洛外図屏風」に加え、新発見の「洛中名所遊楽図屏風」など、永徳の稀少な真筆作品が一堂に会する。さらには、永徳工房が手がけたとみられる多彩な作品や、父松栄、弟宗秀、長男光信、弟子山楽など、同時代に活躍した狩野派絵師の優品約80件が並ぶ。永徳作品の迫力と桃山時代の熱気を肌で感じる展観になりそうだ。
京都国立博物館 京都市東山区茶屋町527 050-5542-8600(ハローダイヤル)
◎10/16〜11/18◎月曜日休館