高橋美江 絵地図師・散歩屋
窪島誠一郎「ある若い画家への手紙」−信州の二つの美術館から−
もぐら庵の一期一印
日野之彦
小滝雅道
遠藤彰子VS佐々木豊
長谷川健司・中野亘
松本哲男
やなぎみわVS佐々木豊
清野圭一
Jean Claude WOUTERS ジャン・クロード・ウーターズ
長尾和典VS鷹見明彦
わたなべゆうVS佐々木豊
カジ・ギャスディン・吉武研司
千住博VS佐々木豊
山本容子VS佐々木豊
三瀬夏之介
佐藤俊介
秋山祐徳太子
林アメリー
マコト・フジムラ
深沢軍治
木津文哉
杉浦康益
上條陽子
山口晃vs佐々木豊
山田まほ
中堀慎治


'Round About


第12回 かたどられた「言葉」との対話
滝口和男(陶芸家)
vs
冨田康子(東京国立近代美術館客員研究員)


※画像はクリックすると拡大画像をひらきます。   
 
 
 
冨田:パラドックスですね。自分にとっては真実味のある「言葉」ほど、伝わりにくい……。
滝口:以前、個展の会場におばさん2人連れが入ってきて、「作家さんは、こういったものを作りたかったんですね」「そうね……」なんて話しているのを聞くと、結構ショックだったね。でも一方で、作品へ自らを投影してくれる人もいる。少し前に奥さんを亡くされたおじさんが、すごく辛かった気持ちと、それを乗り越えて『頑張らな』って考えたことを僕の作品を通して感じてくれたことを話してくれたんです。だから見る人の気持ちとか姿勢によって、何の意味も無い石ころにすぎなかったり、自らを映す川原石のようにもなるんだよね。
冨田:作品タイトルは、たしかに作品への接し方を左右しますよね。でも「無題」シリーズの頃も、「言葉」のやきもの化を考えていらっしゃいましたっけ?
滝口:昔はそんなこと無かったよ。最近が特にクドい(笑)。変な言い方だけど、今までの焼き物的なアプローチのみだと、あまり広がらずに作品ができてしまう。「言葉」を前提にすると、習慣化され当たり前になっていたものが無限に広がる。そして次々と新しい発見が僕自身を驚かせてくれるんだ。
冨田:滝口さんの場合、「言葉」とモノのイメージは、とても深く結びついていますよね。
滝口:僕が使っている「言葉」というのは、自分のイメージじゃなくて、既にみんなが共有している「言葉」なんだ。「言葉」そのものに既にイメージが付随している。たとえば「一眼レフカメラ」と言ったら、範囲はあるけど共通のイメージを持つことができるよね。それは社会性をもったコミュニケーション手段としての「言葉」だよね。僕はそれを利用させてもらっているだけなんだ。
冨田:作品に描かれた小さい動物や草花は、とても繊細で情緒的です。見る人の心の中にある温かくてデリケートな部分を直撃するような……。そんな世界を、ずっと持ち続けていられるなんて、何か特別な精神修行でも?









 
  滝口:それは誰でも持っているんじゃないかな。意識していなくてもずっと見つづけている。だから、記憶って重なっていくんだろうね。その記憶に何気ない瞬間に触れたとき、その上に積み重なったさまざまな想い出が一緒に呼び起こされるんだろうね。  
 









冨田:作風の変化の話に戻りますが、「無題」シリーズから、101の飯碗へ、というのは、やはり大きな転換だったんですね。
滝口:とにかく「無題」シリーズ以外に、何か作りたいという思いが強かった。ちょうど面白い変わり種の器が、わりとお店などでも出てきはじめた頃でもあった。それまでの“焼き物展”みたいな器ばかりじゃなくて、少し個性のある器も扱うようになってきた。
 そう考えてゆくと、今の時代“焼き物的な造形”は、日常生活から遠い存在になってきているのかもしれない。映像とかメディアを通した視覚的な「言葉」が、剽窃され立体化されたモノが側にある。そこへ眼が止まるんじゃないかな。

冨田:さきほども、『人がモノと対話しなくなった』とおっしゃいましたね。
滝口:対話できなくなったんだよね。いや、する必要が無くなってきたのかもしれない。今までずっと当たり前のように実体のあるモノに囲まれ続けてきた。だから「映像か実体か」みたいにはっきりと説明できる共通語って無かったよね。どこか人間同士の関係さえ離れてきているんじゃないかな。
冨田:そういう意味では、101の飯碗に込めた滝口さんの想いというものも、現代ではなかなか通じづらいかもしれませんね。
滝口:モノと人とが一対一の関係で考えることも、おそらく無理だろうね。そういう問題って、ずいぶん昔からある問題のように思えるけど、実際にはごく最近の症状なんだよね。
冨田:それはやきものに限らず美術全般にとっても大きな問題ですね。
滝口:そうだね、生活環境が昔と全然違うもんね。いまはメディアなどから流される情報をぜんぶ鵜呑みにしてしまって、画一化されてしまうようなところがある。かといって一極に集中していくわけでもなくて、むしろ拡散していくような変化だよね。
 だから、ほんの数年前の出来事さえ、思い出すことは大変になってしまうことがある。過去の自分の展覧会についてさえ、ほとんど思い出せなくなってしまうのは怖いことだよね。

冨田:過去だけでなく、未来についても同じことが言えそうですね。たとえば今後、予定されている展覧会についてのイメージはいかがですか?
 
  滝口:もっとイメージできないね。だって将来を語れる「言葉」なんて無いんだから。言葉はいつも後追いだからね。
冨田:後追い?
滝口:過ぎたからこそ、「言葉」にできるんだ。だからこそ「言葉」をモノに変えることも限られてくる。だから、いま出来ることを一生懸命やる、それだけを考えて作っているんだ。

現代工芸 遊にて対談) 

 
  

 

滝口和男(たきぐち かずお)
1953年 京都府生まれ
1974年 同志社大学経済学部中退
1978年 京都市立芸術大学美術学部中退
1985年 日本陶芸展(外務大臣賞)
1986年 中日国際陶芸展(準大賞)
1986年 京都府工芸美術作家協会展
1986年 (京都府知事賞)
1989年 日本陶芸展(秩父宮賜杯グランプリ)
1990年 MOA美術館 岡田茂吉賞展(優秀賞)
1991年 五島記念東急文化賞(美術新人賞)
1992年 ロイヤル カレッジ オブ アート
1992年 (イギリス)修了
1992年 日本陶磁協会(協会賞)
1996年 京都府文化賞(奨励賞)
2001年 個展(福岡アジア美術館)
2003年 現代陶芸の華展(茨城県陶芸美術館)
2005年 個展(高島屋・現代工芸 游・三越)
 
  

 

冨田康子(とみた やすこ)
1966年 神奈川県生まれ
1992年 多摩美術大学大学院修士課程修了

展覧会企画、美術誌編集などを経て、研究・著述活動に専念する。元・東京国立近代美術館客員研究員、現在、横須賀美術館学芸員。(『アート・トップ』「現代工芸作家シリーズ 魔術師たちの贈り物」好評連載中)