|
冨田:パラドックスですね。自分にとっては真実味のある「言葉」ほど、伝わりにくい……。
滝口:以前、個展の会場におばさん2人連れが入ってきて、「作家さんは、こういったものを作りたかったんですね」「そうね……」なんて話しているのを聞くと、結構ショックだったね。でも一方で、作品へ自らを投影してくれる人もいる。少し前に奥さんを亡くされたおじさんが、すごく辛かった気持ちと、それを乗り越えて『頑張らな』って考えたことを僕の作品を通して感じてくれたことを話してくれたんです。だから見る人の気持ちとか姿勢によって、何の意味も無い石ころにすぎなかったり、自らを映す川原石のようにもなるんだよね。
冨田:作品タイトルは、たしかに作品への接し方を左右しますよね。でも「無題」シリーズの頃も、「言葉」のやきもの化を考えていらっしゃいましたっけ?
滝口:昔はそんなこと無かったよ。最近が特にクドい(笑)。変な言い方だけど、今までの焼き物的なアプローチのみだと、あまり広がらずに作品ができてしまう。「言葉」を前提にすると、習慣化され当たり前になっていたものが無限に広がる。そして次々と新しい発見が僕自身を驚かせてくれるんだ。
冨田:滝口さんの場合、「言葉」とモノのイメージは、とても深く結びついていますよね。
滝口:僕が使っている「言葉」というのは、自分のイメージじゃなくて、既にみんなが共有している「言葉」なんだ。「言葉」そのものに既にイメージが付随している。たとえば「一眼レフカメラ」と言ったら、範囲はあるけど共通のイメージを持つことができるよね。それは社会性をもったコミュニケーション手段としての「言葉」だよね。僕はそれを利用させてもらっているだけなんだ。
冨田:作品に描かれた小さい動物や草花は、とても繊細で情緒的です。見る人の心の中にある温かくてデリケートな部分を直撃するような……。そんな世界を、ずっと持ち続けていられるなんて、何か特別な精神修行でも? |
|
|