高橋美江 絵地図師・散歩屋
窪島誠一郎「ある若い画家への手紙」−信州の二つの美術館から−
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'Round About


第5回 篠原有司男 VS 佐々木豊

1960年代現代美術界を席巻した「ネオ−ダダ」の旗手-篠原有司男。
そして、洋画壇の異才-佐々木豊。同時代、芸大キャンパスを闊歩していた2人が、ボクシングさながらに壮絶な対談マッチを繰り広げる。「アート・トップ」205号(8月号)の連載企画に先立ち、この異色?顔合わせファイトをネットで世界に配信してしまいます。 篠原有司男 VS 佐々木豊 題して、「佐々木豊のホンネでファイト 免許皆伝 美術稼業の奥義」

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  “ニューヨークが別天地ってホント? ”  
   
 
佐々木:僕はね、ギューちゃん(篠原有司男)の第一発見者なの。昭和30年、1955年。芸大在学中に上級生の教室に行ったら、2点目立つ絵がある。後ろの方にあったのは、黄土色の絵の具がぐにゅっと分厚くて、むちゃくちゃ下手なんだけど、強引さに魅かれた。でもその2点があまりにも---。
篠原:印象的だったわけね、で、どっちが僕の絵だったの。
佐々木:一人は島田章三だった。それで、あのぐにゅぐにゅした方の絵は誰だって聞いてもらったら・・
篠原:それが篠原だって?
佐々木:そのあとギューちゃんには林武先生との武勇伝がある。
篠原:林先生は僕を追い出したいわけ。月謝も払わないし単位も取れてないし。でも追い出される前に絵を見せた方がいいよと言われて持ってったのがマンボの絵。ペレツ・プラドのマンボの王様はすごいっていう話を聞いていたので、それをスケッチブックに勢いよくぱっぱか汗だくで描いて持ってたんだ。林先生が1ページ見て2ページ見て、きっと最初は冗談だと思ったと思うよ。いつまで見てもそれだけだから途中で止めてバーンと机に投げ出した。それから、俺の顔じっと見て「君の絵には嘘が無い」って。
佐々木:ははははは。
篠原:あの時は感動したね。これでもう学校は卒業できると。そしたら「君、学校はやめなさい」って。
佐々木:それでやめた。
篠原:だって大先生がそう言うんだもの。俺もすっきりしたし。

 
   
 
佐々木:ところで、ニューヨークの話ね。こらからデビューする人、若い人はニューヨークやパリでデビューした方がいい?
篠原:いや、デビューは出来ないよ。
佐々木:ニューヨークで個展は何回やったの?
篠原:35年の間に1回か2回だね。
佐々木:行って何年目に個展開いたの?
篠原:ジャパンソサエティのが1980年だったね。
佐々木:ということは20年も声がかからなかったの?
篠原:売り込まなかったから。
佐々木:売り込まなかったっていうセリフはギューちゃんらしくないよ。日本ではとにかく、ジャーナリストを集めるために派手なパフォーマンスやってたんだから。
篠原:いや最初は全然売り込まなかった。描けなくて作品がなかったし。金もないし。
佐々木:日本だったら貸し画廊があるけど、ニューヨークではそれができなかったの?
篠原:画廊というのは作家をすべてコントロ−ルするところだから。そのかわり画商に惚れ込まれたら、金くれて売り込んでくれるから絵描きは何にもしなくていいのよ。

 
   
 
 
  佐々木:最初の個展のきっかけは?
篠原:ロックフェラー三世奨学金のオフィスの凄腕ボスにポーター・マックレーってのがいてね。ジャパンソサェティの基金集めとかもやってて。なにしろ政府は金くれないから、お金集めはアメリカの美術界トップの双肩にかかってる。ある時がんとお金が入ったんだって。でこのお金何に使うかというんで、篠原にやらせたらということになったそうだ。

 
 

佐々木:篠原にやらせたらということはその時既に名が知られていた。
篠原:ただ噂だけよ。でジャパンソサエティの秘書の太田さんがギューちゃんすげえってソサエティの会長に言ったら直々に作品を見に来てゴーサイン出したの。とにかくジャパンソサェティってのは鎧兜とか日本画なんかをやってたコンサバティブなとこで、岡田謙三さんとか有名な画家がみんなそこでやりたがったんだよ。そこに僕を入れたので、みんな目をむいたんだよね。それは実力というか作品の質の良さっていうか。
佐々木:はははは。
篠原:質というのはアメリカ的に見た質の良さだよ。無茶苦茶で、前向きで、汚くて、ワイルドで、日本的なものもあって。だから日本的なものだけじゃさ、ジャポニカはもう廃れてたからね。俺はネオダダを背中にしょってるし、進駐軍文化もしょってる。

 
 
「女と兎と蛙を従えたストロベリーアイスクリームをなめる髑髏バイク」
(−テロリストアタック直後のニューヨーク)
H207×370×139cm 2004年
カードボードプラスティック 顔料 鉄 アルミニウム
 
 

佐々木:その最初の個展はオートバイと平面もあったの?
篠原:「花魁シリーズ」もあったし。あとアメリカのチューインガム文化と。そのうえにさらにエドワード・ホッパーってのをニューヨークで見つけたんだよ。
佐々木:ギューちゃんとホッパーはどうしても結びつかないよ。でどうしたの。
篠原:だから真似したのよ。その時ホイットニー・ミュージアムでホッパーの展覧会やってずっと惚れ込んでる女性がオープニングに来て、たまげて「なんでお前ホッパー描くの」と言って来た。それで「ホッパーは俳句である。少ない言葉で多くのことを表している」とか言った。
篠原:「small words but big meaning」なんて言ってさ。
佐々木:うまいこと言う。
篠原:そしたら泣いてね。俳句はアメリカのインテリに対して御利益あるから。それで大親友になった。

 
 


佐々木:ボクシングペインティングについて書いたエッセイの最後のフレーズが猛烈に面白い。「体力さえ許せば1,000メートルだってやってやる。そうすればギネスブックものだろう」
篠原:あの文章はどこから来たかっていうと、NHKの「迷宮美術館」で、ぽかぽかぽかーってやったときに、「僕の絵は右から左に向かっていくから、小品も大作も何もない。カンバスがあればあるだけどんどん行くんだ」TVカメラの前で司会や俳優がきゃっきゃ集まってくるでしょう、そういう時に俺は頭がさえるんだね。これはね、昭和一桁の故だね、戦後のドタバタをやって来てるから、直感があるんだね。それから「僕はアートに半分しか責任を持たない。あとは、見る側の責任だよ」と言ったんだ。逃げなんだけど。でも、実際そうなのよ、見る側の方がもっとインフォメーションがあるでしょ。
佐々木:最後のフレーズが笑ったんだけど、「1,000メートルもやればギネスブックに載る」ってね。
篠原:僕が本当にやりたいのは、パリのポンピドー広場ってあるでしょ、あそこでやりたかったのよ。大道芸人がいっぱいいて、すごく聖地になってるしね。それが僕の夢なのよ。NYにはあんなスペースは無いよね。