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新刊・旧刊「絵のある」岩波文庫を楽しむ 文・坂崎重盛


 
 
プラトン社版「苦楽」創刊号の本文、直木三十三作「槍の権三重帷子」の挿画。目次等に挿画家の名は明記されてはいないが、タッチからデビューしたての岩田専太郎だろう。にしてもこのころはまだ岩田専太郎ならではのキレがないのでは?   同じくプラトン社版「苦楽」創刊号、花柳章太郎作「本牧の女」の挿画。フレームの右下に「せんたろう」と読めるサインが。それにしても、新派の名優・花柳章太郎が小説を書いていたとは。なお章太郎自身の達者な絵を色紙で見たことがあります。
 大正末期、第1期プラトン社版「苦楽」の主役といえば誰だろう。デザインを担った山六郎と山名文夫の“山々”コンビの線はある。
 しかし、その人物、エピソードの面白さでは“奇人”直木三十五と、その下で「苦楽」の編集にたずさわった川口松太郎、そして、川口と同じ浅草育ちの川口の引きで「苦楽」に参加、挿画を担当した岩田専太郎──このあたりの名が挙がるだろう。
 また、敗戦後第2期「苦楽」となると、プランナーの大佛次郎は、どちらかといえば影の存在であり(「坐雨盧」名で編集後記を執筆)、編集現場の責任者の須見正義は(後に『大佛次郎と「苦楽」の時代』や『私設安藤鶴夫伝』をまとめるが)目立った存在ではない。
 と、すると、この雑誌の二大連載となる、平山蘆江と安藤鶴夫?
 しかし安藤鶴夫は粋人というより、真摯な芸能、演劇の評論家・作家であり、もう一人の蘆江は──こちらはまさに花柳界の人間模様を描き、都々逸(本人は『街歌』という造語を提唱している)の作家でもあるという典型的な粋人粋筆系の人だが、この二人、それぞれ1冊の評伝が書ける人物である。
 いや、いましたいました。第1期、第2期の「苦楽」両方に関わり、自ら自伝的粋筆を書いてしまっている人。そう、挿画家の岩田専太郎。
 華麗なる女人像を描いて「線の魔術師」といわれた絵師。同じく粋人の川口松太郎との、終生の友情関係も興味ぶかい。
 岩田専太郎自身による女人粋筆を楽しみながら、その周辺をたずねてみよう。
『わが半生の記』(昭和47年・家の光協会)では挿画家として名を成すまでと女人との交渉が回想される。死の3年ほど前の著作。   「苦労や無理をして女につくす気持ちの張りが、仕事にプラスする。」(『わが半生の記』より)という岩田専太郎の描く女人像。
   岩田の『わが半生の記』(昭和47年 家の光協会刊)を手に取る。この挿画家の実質的デビューの第1期「苦楽」時代が回想されている。
   たまたま友人の川口(松太郎)が、震災後新しくできた、大阪のプラトン社と
  いう出版社につとめていた。プラトン社からは、『女性』という婦人雑誌と、
  『苦楽』という娯楽雑誌が出される計画で、当時文壇の大家だった小山内薫氏と
  直木三十五氏が相談役の形をとり、編集の実務に川口が当っていた。
   その川口が、久し振りに会ったとき、「お前も大阪へこないか。さし絵を描く
  画家に不自由しているんだ」
   と、いつもの明かるい口調で語ってくれた。
ちょっと珍しい本かも。岩田専太郎編による『挿絵の描き方』(昭和13年・新潮社刊)岩田の他に、富永謙太郎・志村立美・小林秀恒・林唯一といった当時売れっ子の挿画家による技法書。   『わが半生の記』で紹介されている岩田専太郎の挿画作品。邦枝完二作『浮名三味線』、川口松太郎『蛇姫様』
  その川口の誘いに「生計のあてもなく、京都の両親の家でぶらぶらしていた私に
  とって渡り舟といってよかった」と、すぐさま、この話に乗る。
 この一節だけで、“明かるい苦労人”川口の良き人柄の一端がうかがえる。岩田の述懐はつづく。
  その後も、川口にはいろいろ世話になっているが、初対面のときから、二つ年上の
  彼に頭が上がらないような気がしている。
 そんな岩田だが、このころ、ちょっとした事件をしでかす。のちに文士劇では女形をやり、典型的な優男(やさおとこ)タイプの岩田が、こんなエピソードがあったのか、というようなできごと。
 それは、交通巡査への反抗的な態度をとったということにより、精神病院に送り込まれ、三ヵ月近くとめられてしまったというもの。
 それを聞いた直木三十五のコメントがいい。
  「この男は、気狂い病院へ入れられたぐらいだから、人間は、たしかだ」
   
 という。自ら、ほとんど生活破綻者でありながら文藝春秋社長の菊池寛に非常に愛されたという直木らしい口ぶりだ。因みに直木賞は直木の死後、彼を顕彰すべく菊池寛が「直木賞」として設けたもの。
 そんな直木や川口の下で、岩田は大きなチャンスを得る。『わが半生の記』の中の「登龍門」という項の一節。
   プラトン社で、永井荷風、谷崎潤一郎、里見怩スちの大家の作品に、さし絵が描
  けたのは、名もない当時の私としては光栄だった。(中略)『女性』『苦楽』は、
  両誌とも、その内容が他誌にくらべて充実しているという定評だったから、自然、
  その誌上にさし絵を描いている私の立場も有利だった。

 しかし岩田は大正15年には東京に戻ってくる。大正14年4月号から久保田万太郎の推薦もあり編集長になっていた川口松太郎が、自らの編集方針の責任をとって大正15年プラトン社を辞めてしまったのだ。
 ただ、このころ岩田専太郎の名はすでに知られ、とくにこの年「大阪毎日新聞」に吉川英治が連載した「鳴門秘帖」が人気を博し、岩田の挿し絵も評判になる。ところが……
 
《この項、次回に続く》
坂崎重盛(さかざき・しげもり)
■略歴
東京生まれ。千葉大学造園学科で造園学と風景計画を専攻。卒業後、横浜市計画局に勤務。退職後、編集者、随文家に。著書に、『超隠居術』、『蒐集する猿』、『東京本遊覧記』『東京読書』、『「秘めごと」礼賛』、『一葉からはじめる東京町歩き』、『TOKYO老舗・古町・お忍び散歩』、『東京下町おもかげ散歩』、『東京煮込み横丁評判記』、『神保町「二階世界」巡リ及ビ其ノ他』および弊社より刊行の『「絵のある」岩波文庫への招待』などがあるが、これらすべて、町歩きと本(もちろん古本も)集めの日々の結実である。

全368ページ、挿画満載の『「絵のある」岩波文庫への招待』(2011年2月刊)は現在四刷となりました。ご愛読ありがとうございます。

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