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高橋美江 絵地図師・散歩屋
窪島誠一郎「ある若い画家への手紙」−信州の二つの美術館から−
橋爪紳也 瀬戸内海モダニズム周遊
外山滋比古 人間距離の美学
坂崎重盛 粋人粋筆探訪
もぐら庵の一期一印
新刊・旧刊「絵のある」岩波文庫を楽しむ 文・坂崎重盛


 
 
 今回から始まる『粋人粋筆探訪』、もともと道楽定年的執筆者集結の月刊誌「遊歩人」で連載を始めたのですが、一年もたたぬうちに雑誌の休刊により、こちらの連載も一時停車となっていた。
 スタートしたばかりの連載中止は無念ではあったが、気持ち的には(資料を貯めこむ時間的余裕ができた)と思うことにした。
 その連載の最後の稿のタイトルは『「苦楽」な人びと』。
 

昭和23年11月創刊号。用紙は戦後すぐなだけに粗悪だが、表紙に鏑木清方を起用
 戦前、戦後の出版文化に少しでもくわしい人なら──「苦楽」──という雑誌名には、すぐに反応するのではないでしょうか。
 半可通の私は「苦楽」といえば、敗戦すぐ後(昭和23年11月)に創刊された鏑木清方描く表紙の雑誌しか知らなかった。古書展などの雑本類にまじって、500円とか300円で入手していたのである。
 しかし中味は、ほとんど読んでいなかった。というのも、まず100%、状態がよくない。もともと戦後すぐの粗悪な仙花紙に印刷されているので本紙は黄ばんでいるし、ムレもある。買って来ても読む前に、しばらく陽にさらし、ホコリを払わないと手に取る気がしない。
   しかし、この「苦楽」で、平山蘆江の「東京おぼえ帳」(!) 、そして安藤鶴夫の「落語鑑賞」(!) の連載が始まったことを知る。「苦楽」恐るべし、の感を抱く。

この平山蘆江の『東京おぼえ帳』(昭和27年6月刊)も戦後の「苦楽」の創刊号からの連載をまとめたもの。装丁は著者自身。実に洒脱なデザイン感覚ではないか。
これぞ「苦楽」の連載が単行本として刊行された「苦楽社」版 安藤鶴夫『落語鑑賞』(昭和24年7月刊)カバー。この『落語鑑賞』は後に何度も他社から復刊されるが、なんといってもこの最初の苦楽社版が木村荘八の装丁も含めて最高。
 本文表紙から見返し、扉、後見返し、裏表紙と寄せの入口から下足、中の様子、楽屋出口という流れ。木村荘八のなんともうれしい企みだ。
@まず本表紙。寄席の入口。看板は「くらく亭」とある。画家のニクイ遊び心ですね。   Aつぎが寄席の下足の場面。木村荘八は、かすりに学生帽の子を「これが鶴だよ」と安藤鶴夫に伝えたという。いい話ですねぇ。
  B扉は寄席の中。右はめずらしい著者・安藤鶴夫のサイン。(どーだ、の気分)それにしてもキチンとした律義な美しい字ですね。  
Cこちらは楽屋。出番を終えた噺家が帰る   D寄席を出て人力車を拾う、という流れです
 そうこうしているうちに、当然、この、戦後「苦楽」の前に、いわば第1期「苦楽」が、関東大震災の直後、大正13年1月に、大阪のプラトン社から創刊されたことも知る。これが“伝説”のプラトン社版「苦楽」だ。
 ──とまあ、「苦楽」の第1期、第2期のあらましを書き始めたところで、小粒ながらピリリと味の効いた雑誌「遊歩人」は惜しまれつつも休刊となってしまったのだ。(web版で復活、池内紀氏他の連載あり)

 その「遊歩人」での連載をこのたび、ここ芸術新聞社のホームページ「アートアクセス」で「復活、連載しませんか」とお声をかけていただいた。

 思えば、今年の2月、芸術新聞社から刊行された『「絵のある」岩波文庫への招待』も、読書誌「彷書月刊」の連載が休刊により「アートアクセス」で引きつぎ連載、それを一巻にまとめたものである。
 この『「絵のある」岩波文庫への招待』、高価格(2600円+税)、また刊行直後に東日本大震災という大惨事に見舞われたにもかかわらず、この非常時に、すでに四刷!という快挙(?)を成し遂げている(ヌケヌケと自慢する)
 このツキに乗らぬ手はない(柳の下のドジョウ?)ということで再起動、戦後の軟文芸・粋人粋筆の人と世界を訪ね歩いてみようということになった。
 この間、戦前のプラトン社版「苦楽」の付録つき創刊号も入手できた(ただし復刻版でしたが)。また、あちこち歯抜け状態だった戦後「苦楽」のバックナンバーも創刊号から26号までは、なんとか全冊揃った。これで「苦楽」の概要は楽しむことができるはずだ。

 というわけで、「アートアクセス版」『粋人粋筆探訪』は「苦楽」の周辺からスタートします。
 ことの経緯(いきさつ)上、一部「遊歩人」の記述と重複する部分があるかもしれませんが、ご理解、よろしく。

 この『粋人粋筆探訪』、本来は、戦後の軟文芸──今日、ほとんど絶滅状態の「ユーモア」「お色気」「エスプリ」といった大人の娯楽文芸世界──を訪ねるのが主眼なのですが、こと今回の「苦楽」に関しては、第2期の戦後「苦楽」と、第1期大正末創刊の「苦楽」が微妙に関わりを持っている、そこがまた興味をそそる、というか趣きぶかいものでもある、ということで、第1期、第2期、気ままに往還しつつ、誇りある娯楽雑誌「苦楽」の世界を楽しみたいと思います。
 ま、文字どおり「苦楽」を伴にする、という寸法です。

 まずは、戦前と戦後、二つの「苦楽」の創刊号を見てみよう。
 第1期「苦楽」。発行元は、戦後育ちの私でもその名は知っている「クラブ化粧品」中山太陽堂(本社・大阪)がおこしたプラトン社。
 このプラトン社、中山太陽堂の顧問であった劇作家・小山内薫を編集長、エディトリアル・デザインを同社のデザイナー山六郎が担当、「女性」を創刊する。
 続く、翌大正12年、関東大震災の直後、直木三十五(当時は「直木三十二」名)は、東京から逃れるようにというか、夜逃げ同然で出身地でもある大阪に移住、プラトン社に入社。(この間の直木三十五とその周辺に関しては植村鞆音著『直木三十五伝』文春文庫にくわしい。この本、好著)
 プラトン社では「女性」につづき高級娯楽誌の創刊を準備していた。このとき編集スタッフとして入社したのが川口松太郎。その川口に誘われて大阪についていったのが川口より二歳年下の若き挿画家・岩田専太郎。
 そして、デザイン部の山六郎に山名文夫(あやお)が加わり都会的なモダニズムで人気を博す“山々”コンビが生まれる。
 
川口松太郎とともにプラトン社版「苦楽」の編集にたずさわった奇人にして一代の風雲児、直木三十五の評伝。著者の植村の「植」はバラすと「直木」だ。はたして「苦楽」との関係は。   戦前のプラトン社版「苦楽」を編集した川口松太郎による文壇、劇団人との交友録(昭和58年講談社刊)
  美しい装丁のプラトン社刊 宇野浩二『心つくし』(大正13年3月刊)。なぜか編集者ではなく印刷者のところに直木三十三(この時は33歳になった)の名が見える。
 その創刊号を手にする。どっしりと持ち重りがする菊判全416頁。しかもほぼA6判196頁の付録つき。
 目次を開く、その豪華執筆陣に一瞬、くらくらと目まいがする。どんな布陣かというと──、また、これに対する第2期、戦後「苦楽」の創刊号は──。
 
《この項、次回に続く》
坂崎重盛(さかざき・しげもり)
■略歴
東京生まれ。千葉大学造園学科で造園学と風景計画を専攻。卒業後、横浜市計画局に勤務。退職後、編集者、随文家に。著書に、『超隠居術』、『蒐集する猿』、『東京本遊覧記』『東京読書』、『「秘めごと」礼賛』、『一葉からはじめる東京町歩き』、『TOKYO老舗・古町・お忍び散歩』、『東京下町おもかげ散歩』、『東京煮込み横丁評判記』、『神保町「二階世界」巡リ及ビ其ノ他』および弊社より刊行の『「絵のある」岩波文庫への招待』などがあるが、これらすべて、町歩きと本(もちろん古本も)集めの日々の結実である。

全368ページ、挿画満載の『「絵のある」岩波文庫への招待』(2011年2月刊)は現在四刷となりました。ご愛読ありがとうございます。

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