高橋美江 絵地図師・散歩屋
窪島誠一郎「ある若い画家への手紙」−信州の二つの美術館から−
坂崎重盛 新刊・旧刊「絵のある」岩波文庫を楽しむ
橋爪紳也 瀬戸内海モダニズム周遊
外山滋比古 人間距離の美学
もぐら庵の一期一印
はじめまして岡村桂三郎です。
その29−いくつもの山形、ありがとう。
 *画像は全てクリックすると拡大画面が開きます。
  それぞれ岡村先生のコメントもついています。
 あっという間に、5月になってしまいました。
 皆様、お元気でしたか?
 春になっても暑かったり寒かったり。こういうのを、チョット前まで、「異常気象」と言っていたのですが、最近は異常なのが普通になってしまって、普通なのが普通じゃない。だから、あまり「異常気象」という言葉も聞かれなくなってきたのかな〜?ともかく、地球の将来が心配です。
 3月の終わり頃の話ですが、もの凄く風の強い夜がありました。今まで聞いた事もないような「ゴーゴー」という猛烈な風の音が、一晩中唸っていました。
「これは普通じゃないな。竜巻でも起こってやしまいか?」と、あまりに激しい暴風の音に、眠れない夜を過ごしていたのですが案の定です。翌朝、一緒に田んぼをやっている竹内君から、
「田んぼの小屋が、大変だよ!!」という電話が有りました。
 行ってみると、耕耘機や脱穀機等はそのまま有るのですが、小屋の方はすっぽりその場から吹き飛ばされ、数メートル先でバラバラになって落ちているではありませんか。竜巻だったかどうかはわかりませんが、相当の突風が吹いていたに違いありません。
 いや〜、やられちゃいましたよ……ガックリです。

 ここ数ヶ月、僕の方は相変わらず……と言うよりも、なんだか展覧会がずいぶん多かったような気がします。
 年末から4月にかけて憶えているだけを数えてみても、13件の展覧会(たぶん?)をやっていました。一つずつ展覧会を振り返るなんて事は割愛しますが、その中では特に、個展を二つも開催したのは相当ヘビーな事でした。
 一つは、毎年3月に開催しているコバヤシ画廊(銀座)。もう一つは、Dillon Gallery(ニューヨーク)。こっちの方は、5月8日まで開催中です。

 展覧会についてはまた次回にでも振り返るとして、前回からの話の続き、芸工大を辞めた話をしなければなりませんね。
 今も忙しいけれど、あの頃はもっと大変でした。確かに最近は、作品制作が忙しく大変な思いをしていますが、あの頃は「絵を描く事ができない」という、もうどうする事もできないような、途方にくれるような辛い日々を過ごしていました。作家として、苦しく悔しい思いでいっぱいだったのを思い出します。
 それは今から三年以上前の話です。ですから話は、2007年の冬に戻ります。

 その冬、1月の終わりに母が亡くなりました。けれども僕には、母を亡くした悲しみに浸る余裕などありませんでした。現実的なスケジュールは、容赦なく押し寄せて来ます。
 大学では、卒業制作展や入学試験などがあり、一方、作品制作の方は、横須賀美術館で開催する「生きる」という展覧会の為の大作を描くこと、コバヤシ画廊で開催する個展のための制作、ともかくギリギリの時間配分で、仕事に没頭していました。
 年末にぶっ倒れてしまった自分の体調の事(前回の話参照)を考えるとやっぱり無理はできないので、なるべく休み休みを心がけてはいたのですが、それでも時間は無情にも刻々と迫って来ます。
 絵を描く作業は、もちろん誰も代わりにやってもらう事など絶対にできない仕事です。自分がやらなければ一歩も前に進めません。それなのに、どんなに制作がしたくとも、山形に行ってしまえば、いっさい制作はできない。前に進まない。山形では、それこそ朝から夜遅くまで、大学関係の仕事でビッシリでした。おまけに雪や事故で、通勤に使っている東北道が封鎖されてしまえば、お手上げです。1日は24時間しかありません、それをどのように使っていくか。そんな事ばかり考えていました。
 もうこんな生活にはウンザリしていましたし、このままではいけないという事も感じていました。でも、どうする事もできない。ただ猛然と頑張るしかありませんでした。
 それでもなんとか、無茶の連続と神のご加護によってですが、ぎりぎりで作品を完成させ、展覧会の搬入にこぎ着ける事ができでした。
 そして、それはコバヤシ画廊での個展の開催中の事でした。僕も良く知るある人物が、展覧会の会場にやって来ました。
 その人物は、僕の作品を一通り観賞した後、
 「ちょっと、表に出ないか?」と、僕を誘いました。
 「何だろう?」と思い、僕は言われた通りその人物の後について、コバヤシ画廊の細い階段を上っていきました。
 階段を上り終わり、画廊の外に出ると、夕暮れの銀座の街が広がっていました。ただ、コバヤシ画廊の通りは、それ程人通りが多い方ではありません。
 その人物は、階段を出てすぐ横の壁に寄り添うように立ち、辺りをみまわし、他に誰も人がいない事を見計らってから、小さな声で告げました。
 「多摩美の方で、岡村君のことを欲しがっているようなのだけれど、どうする?」
 正直、それを聞いた時、目眩のようなものを感じました。それまでの複雑な思いが、僕の頭の中で絡み合っていました。
 「わかったよ、考えてみる。」
 気が付くと僕は、そう答えていました。もしも、それと同じ事を、その半年前に聞かされていたら、即、その場で断っていたでしょう。しかし、その頃の僕は、それ程追い詰められていたのです。
 その夜の帰りは遅くなり、妻が近くの駅まで車で迎えに来てくれていました。僕は、車の中で例の話を妻にしていました。でも、すぐに思い直し、
 「でも、やっぱり無理だよな〜。芸工大やめるなんて。いろいろ考えちゃうと〜、やっぱり無理だよな〜、むりむり…。」
 山形にいる学生たちの事、尊敬する先生たちの事、仲の良い同僚や職員たちの事、一人一人の顔を思い出し、それに、大学での僕の責任。考え方を変えれば、仕事は充実しているし、人間関係も良好だし、働く40代の男としては、この上なく幸福な状況であると言えなくもない。色々考えれば考える程、芸工大を辞めるなんて、そんなバカバカしい事………。妻もそれには同意していました。
 しかし、しばらくして、運転席の妻が、少しためらいながら、
 「…ちょっと待って……、でも、それも…あるのかな……。毎週、山形との往復の運転が、いつも、心配なのよ…。」
 僕はその頃、山形では一切制作なんかできやしないのに、もしかしたら描く時間があるかも知れないと、画材や作品、資料も一緒に移動できるようにと、車で山形まで移動していました。ですから、年間の走行距離も半端じゃなく、おそらく年間40000キロ位、雪道も、嵐の日も含めて、走っていたのです。
 「そうか……。」
 妻の言葉に、家族の事を考えました。

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