高橋美江 絵地図師・散歩屋
窪島誠一郎「ある若い画家への手紙」−信州の二つの美術館から−
坂崎重盛 新刊・旧刊「絵のある」岩波文庫を楽しむ
橋爪紳也 瀬戸内海モダニズム周遊
外山滋比古 人間距離の美学
もぐら庵の一期一印
はじめまして岡村桂三郎です。
その26−入試部長、旅がらす。(前半)
 *画像は全てクリックすると拡大画面が開きます。
  それぞれ岡村先生のコメントもついています。
 お元気ですか!?なんだかんだと、またまた月日が経ってしまいました。すみませんでした。
 いや〜この間、いろいろありまして、やっと「ひとりごと」を書いてます。もうご存知の方も、沢山いらっしゃるとは思いますが、ここで改めて発表させていただきます。

 実は僕、この春、山形の東北芸術工科大学を辞め、多摩美術大学の教授になってしまったのです。そんなことなので、多摩美の皆さん、ふつつか者ではございますが、どうぞヨロシクお願いします!

 そして、芸工大の皆さん、ありがとうございました!
 いや〜、ホントに楽しい9年間でした!
 これからも、なんだかんだと、いろいろお世話になってしまうと思いますので、ヨロシクお願いします!!
 ずっと芸工大にいて、山形に骨を埋める覚悟でいた僕でしたが、いやはや人生なんてどうなるのか本当にわからないものです。多摩美に行くということは、これはこれで自分で決めた事ではあるのですが、ほんの数年前までは思いもよらないことでした。
 多摩美のことや、どうして多摩美に行くことになったのか等の話は、次回以降にまわすとして、今回は、芸工大でずっとやっていた入試部長の話をしようかと思います。日本画コースのこと以外で、とても大変だったけど、思い出深いのが、入試関係のこと。特に学生募集に関することなのです。
 少子化によって大学は、全入の時代。大学に入りたいと思う学生は、大学を選びさえしなければ、誰でも大学に入れてしまう。そして、人気のある大学と、それ以外の大学は二極化され、さらに三極化が始まっている時代。三極目に入ってしまった大学は、やがて経営が立ち行かなくなる可能性もあるのです。こういった状況で、地方の私立大学の立場は、当然厳しい。
 でもその中、東北芸術工科大学は、地方の私立の、それも美術の大学であるにもかかわらず、どう言う訳か益々元気にやっています。それは、どうしてなのか?一言で言えば、教員や職員たちが、本当に頑張っているからに他ならないのです。そんなことが、骨身に染みて感じられた数年間でした。

 去年の春に、洋画コースの主任で現代作家の石井博康先生がこの役目を引き継いでくださったのですが、それまでの数年間、ずっと芸工大の入試部長というのをやっていました。
 受験生の獲得のために、西へ東へ南へ北へ、予備校廻りに高校訪問、出張講義に大学説明会と奔走していたのです。北は北海道の札幌、南は熊本まで、受験生がいると言われればどこへでも行きました。
 それも、一年中です。まあ、だいたい秋までが勝負ですけどね。だから、例えば夏休みは予備校まわりにあけくれて、制作に没頭することなど、ほとんど考えられませんでした。
 後任の、石井先生。今頃どうしてるかな?石井先生のことだから、無理しちゃってるに違いないな〜。あんまり頑張り過ぎないで下さいね。

 そもそも僕のような人(絵だけ描いてた人)が、どうして入試部長のような重大な役をやってきてしまったのか?どだい無理がありますよね。
 今ここで、少し振り返ってみたいと思います。
 それは、僕が芸工大に行ったばかりの頃でした。僕は、単身赴任になってしまうので、山形でアパートを借りたり、とりあえず住むための家財道具を揃えたりと、新生活を始めるために、当時の学生に手伝ってもらいながら、引っ越し作業をやっていました。
 その時はたしか、近所のデンキ屋まで、手伝ってくれていた学生の車で、買い物に行く途中だったのだと思います。車内では、ヨモヤマ話に花を咲かせながら向かっていたのですが、交差点の信号が赤になって、話が少し止みました。その時、助手席に座ってポケーとしている僕に、ハンドルを持っている学生が、ポツリと言った言葉がありました。
 「こうやって運転してると、時々、ふと思うんですよ、『ああ、ここは山形なんだな。』・・・って。」
 そのことは、今でもはっきり覚えています。山形の美しい街並に降り注ぐ初夏の光の眩しさ、フロントガラスに広がる青空と、そこに走る黒い電線、そんな情景とともに、未だに忘れないでいます。

 その学生は、山形に来る前、はるばる北海道から上京し、東京の美術予備校で何浪もしていた経験がありました。それは、東京の芸大や美大を目指すためだったに違いありません。しかし、その夢を果たすことはできなかった。ここは彼が夢に描いた東京ではない。芸大や美大に合格できる程の実力はじゅうぶん有りながら、ほんの少し運に恵まれなかった。

 ここで彼の名誉の為に言っておきますが、現在彼は、全国的にも若手の実力者として、活躍している作家になっています。しかしその当時、長い浪人時代のことや、その夢が結局、叶わなかったという空しい思いとともに、悶々と山形で暮らしていたのではないでしょうか。

 ここの学生達は傷ついているのではないか。自信を失いかけているのではないか。そんな思いが、僕の心によぎり広がっていったのです。普段の明るい笑顔の裏に、いつも、人知れず疼いている潰瘍のようなものに、ふと触れてしまったのかもしれません。
 「ああ、ここは山形なんだ。」という言葉は、僕自身が芸大の教官室を辞めて山形にやって来たという思いと、複雑に絡み合い、忘れられない言葉となっていきました。そしてその時、僕の心にカチッと火が灯ったのです。
 なんとかしてあげたい。いや、なんとかしたい。
 でも、どうしたら良いのかわからない・・・・。

 僕が、予備校を回り始めたのは、そんなことがきっかけだったのだと思います。なんとか、受験生が沢山受けてくれるような大学になって欲しいよな。あいつらが、自信の持てる大学じゃないとな。たぶん受験生は、芸工大のこと、知らないんじゃないかな?だって、僕だって、知らなかったんだから・・・。

 けれども予備校をまわろうと思ったのは良いけれど、どうやって予備校など回ったら良いのか見当もつきません。そもそも、予備校に行って、何をすれば良いのだろうか?
 考えてばかりいてもしかたがないので、とりあえず、よく知ってる後輩が講師をしている予備校にケータイで電話をしてみました。
 「おお〜、げんきか〜?・・・・うん、いや、今度さ、山形の芸工大というとこに入ったんだけどさ、まぁ、ちょっと、う〜ん、あいさつに行くよ!」
 しかし、そんなことがその後、当の予備校の方では、大問題になってしまったようでした。
 「大学の公式の訪問なのか?何の為に来るのか?だいたい、岡村というのは、何者なんだ?!」
 その時は、7月か8月、予備校は夏期講習の真っ盛りの頃です。よく晴れた、暑い日でした。今考えると、マズかったのかな〜とも思うけど、その時の僕の出で立ちは、アロハシャツにサンダル履きで(もちろんハダシでしたけど)、大学から預かって来た学校案内をどっさり抱えながら、汗をカキカキ一人で参上したのでした。そして、そんな僕を待ち構えていたのは、講師をやっている後輩の懐かしい笑顔ではなく、なんと、その予備校の理事長の、不信感でいっぱいになった顔だったのです。

 「あの・・、この6月から、ト〜ホクのですね、えーと、やまがたの東北芸術工科大学と言う所に行っている、岡村といいます。え〜と・・・。」
 僕はドギマギしながら挨拶をしました。芸工大の教員になって、まだ、二ヶ月程しか経っていない頃ですし、何しろたどたどしく、貰ったばかりの大学の名刺を渡したのです。
 その理事長は、僕の姿を、頭の先からつま先まで、まじまじと眺め・・。何を思い付いたのか知りませんが、キッパリとした口調でこう言ったのでした。

 「おまえ、東北なんかに行かないで、ウチに来い!」
 「エッ・・・??!」

 その後僕は、そこの予備校の講師になる、ということはありませんでしたが、こんな風に、僕の受験生募集活動が始まったのでした。

後半に続く)
   
 
【インフォメーション】
「岡村桂三郎・まゆみ2人展」が開催されています。
お近くにお出かけの際は、ぜひお立ち寄り下さい!


 
展覧会名 岡村桂三郎・まゆみ2人展 〜絵本『海女の珠とり』の原画と花展〜
会場 ギャラリィ&カフェ 山猫軒
 埼玉県入間郡越生町龍ケ谷137-5
 tel:049-292-3981
 http://www.geocities.jp/ura3tametomo/
会期 2009年4月3日(金)〜2009年6月28日(日)
*金・土・日・祝日 開催
時間

11:00AM〜7:00PM


© Copyright Geijutsu Shinbunsha.All rights reserved.