この秋の『第41回日展』、六本木の美術館で自作を一目見て、ああああ、と血の気が引いた。墨色が思ったように出ていない。失敗したなぁと、大きくがっかり。今すぐ作品を持って帰りたい、という実現不可能な思いが頭をよぎった。
近年、大きく強くがっかりすることがあまりなかったので、なんとも気分が悪い。京都の在住の作家の場合、日展は東京での1カ月のあと、すぐに京都でも1カ月間展示されるので、2カ月気分の悪さが続くことになる。
よく言われることだが、書の作品は、表具屋に持ち込んだ作品が、裏打ちされ額装され、会場に展示されると、その作品の悪い部分にスポットライトがあたっているように見えて、自宅で書き上げた時とは別のものとなってしまうものだ。思いの外よかったということもあるが、落胆する事が大半。買いかぶっていた自分に、現実の姿を見せつけられる。
一部の洋画家は、搬入された作品を会期オープンまでの間に、その場で補筆すると聞いたことがある。光のあたり方などはやはり計算出来ないからだと思うが、油絵では可能でも、書では補筆は無理。会期の終わるのを、ひたすら我慢して待つしかない。
ただ、仕上がった自作を会場で見るというのがもっとも勉強になることは間違いなく、制作中にさまざまな図版を見ることも、師や先輩の助言をもらうことも大事だが、やはり、会場で大いにがっかりし、反省した思いを次作につなげることが一番大きい学習だ。制作は反省から始まる、ともいえるだろう。
また、会場での先輩や同輩からの一言が身にしみるもの。制作の真っ最中は、アドバイスすらうっとうしく思えることがあるのに不思議なことだ。自作に対する本音はなかなか聞けなくとも、ちょっとした一般論が役に立ったりする。
ところが、同業者以外の一般愛好家のナマの声はなかなか聞こえてこない。
いまからもう15年ぐらい前、京都文化博物館に出品した自作の前で、いつものように反省していたときのこと。観覧中の見ず知らずの初老のご夫婦が、ぼくの作品の前に立たれた。そのとき、ご主人さんが、「まあまあやな、でも、こいつは、前はもっとひどかったんや」と奥様に話された。そばに本人がいるとも知らずに。
これにはショックを受けた。忘れずにしっかり覚えている。しかし、その一言が的を射た真実だったことは、今思うと紛れもないことで「良薬は口に苦し」だったなと振り返るが、なによりの収穫は、ちゃんと見ることの出来る人が世間にはおられるのだ、と実感したことである。
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