「師風」という言葉がある。一般には使われない言葉だが、書の世界では、時折耳にする。要するに「師匠の作風」という意味だ。「彼はよく師風を継承している」というように使うのだが、これは書の作品を作っていく上では、プラスにもマイナスにもなる。
日本に限らず、伝統的伝承的な芸術や芸能を学ぶ人は、「まねる」ところから始まる。詳しいことを知っているわけではないが、歌舞伎、舞踊も、能、狂言、文楽、浄瑠璃も、落語も奇術も、師匠や先輩のワザを我がものにするために、まずはまねる。
書の世界もまったく同じで、中国や日本の、千年を越える昔のものをまずはまねる。古典や古筆といわれるものを身につけて、やっと作品の制作にはいるわけだ。それとても、師匠に「お手本をお願いします」と申し出たり、自分で書いてきたものをあれこれ言葉で指導を受けたり、部分的に朱墨で添削を受けたり、などと程度の差はあれ、基本的には弟子は師匠の存在なしに作品を完成させることはほとんどない。
しかし書は、流儀を守ることや家風を受け継ぐ、というジャンルのものではなく、あくまで弟子も一人の独立した作家であるので、伝承よりも創造する能力が問われることになる。
弟子であっても、幾年かが過ぎ、その作家でないと出せない風合いが徐々に醸し出され始めると、その師匠の立場は"指導"から"見守る"というものに移行していく。それでも、弟子は師匠の意見を受け入れる立ち位置にいるわけなので、まったく異質になるということはやはり少ない。時間をかけつつ徐々に一人の作家として出来上がっていき、先代、先々代の師匠のムードがそこはかとなく醸し出されてはいるが、オリジナルな作風を持っている、というのが、おそらく一人の弟子にとっては、順調な進化だといえるだろう。
問題は、師風に固定化してしまい、そこから離れることが出来なくなる場合にある。師匠にカリスマ性があり、個性的で、人気作家であればあるほど、弟子は往々にして、その師匠の大ファンである。もっと近づきたい、もっと似せたいという気持ちは誰よりもあり、骨身を削って、師風を追いかける。大好きで社中に所属しているに、どうして、そこから離れなくてはならないのか、というのも、納得できる話である。
しかし、師風をのみ追求することには、どちらかというと否定的な意見が多い。みずからが再度古典にあたり、師匠がたどったように弟子もみずからの作品を追求しなくてならない、という論調がとられるからだ。口に出していわなくとも、弟子の作風が師匠とまったく同じだったとき、プラスの評価をしてもらうことは少ないのではないかと思う。
といって、見に行った一門の展覧会の作品がすべてまったく違い、同門なのに違うことを考え、別々の方向を指向するというのも、不自然だ。師風の継承というのが、書の世界においてむずかしい問題であるのは、そのあたりにもある。
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