少し前のこととなるが、5月の連休に、島根県・出雲の足立美術館を訪れてみた。
足立美術館は、5万坪もの日本庭園で大変評判のいいところで、 たしかに美術館を囲む空間は、非常に贅沢。京都の坪庭に慣れているぼくからすると、その概念ではとても言い尽くせないほど立派なものだ。庭園の設計は言うに及ばず、規模も管理の良さも、確かに世界一の日本庭園であることは異論のないところだと思う。ぼくは庭についてはまったくの素人であるが、「わびさび」の世界が底流にあって、樹木も石も充分に配慮されたとても洗練されたものであることは間違いない。日本の庭園は建築と同じぐらい重要で、芸術ともいえるものだ。ぼくもこれから、もっと積極的に勉強しようと思っている。
さて、足立美術館は横山大観コレクションが有名で、ぼくが訪れたときも比較的大きな展示をおこなっていて、大変感銘を受けた。先の東京・国立新美術館での大回顧展に出向けず残念だったが、ここで大観にふれることが出来て大満足。しかも、京都の近代日本画家の展示もあり、竹内栖鳳、上村松園、橋本関雪、土田麦僊、西村五雲ほか、錚錚たる顔ぶれ。京都の画家の絵を京都の人間が、出雲で見るというのも、楽しい体験だった。
ぼくはかな書を専門としていて、日本画については愛好家の一人でしかないが、以前から、日本画の構図に大変興味を持っている。
たとえば樹木の枝に一羽の鳥がとまっているという絵にしても、その木の幹や枝の長さ、葉や鳥の顔の向き、羽の形。これらが一体になって絶妙なバランスをたもっていたりする。この構図がどういういきさつで生まれ、完成したのか、作者はなぜ、その構図を選択したのかを、常々知りたいと思っている。なぜなら、絵の構図の学習が、われわれかな書を学んで制作しているものの大きな糧になると考えているからだ。
基本的にかな書では、一枚の紙に文字を配置するときには文字を散布させる。つまり、「散らし」書きをする。もちろん、単純にバラバラ散らせばいいわけではなく、“美しく”配置していくのだが、それには、空間についてのある種の感覚が必要だ。知識も感性もなくただ文字が散らされただけ作品は、箱から出したばかりの、組み合わせる前のジグソーパズルのピースみたいなものだ。
近年、展覧会で見られるかな書の作品の多くは、大字かなである。それも、たいていが行を並べた、いわゆる行書きといわれるものが主流で、散らしを用いた作品は少数派になっている。もちろん、かな書といっても古筆の世界では、それほど散らしが多用されているわけではない。本阿弥光悦のような、デザインを念頭に置いた作品をのぞいてしまえば、書状なども含め散らしは少ないといえる。しかし、線質も造形も大きな要素ながら、散らし書き、つまり文字の散布こそが、近代かな書の生命線であると、個人的には考えている。
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