世界的な不況がまだまだ続いている。日本もよい状況になく、再度の底打ちがあるのやらないのやら。新しい政府もいろいろと対策を練り、不況対策や公共工事の問題、派遣社員に年金の問題など、新聞にはさまざまな記事が賑わっている。
不況は今に始まったことではない。昨年からの百年に一度の思わしくない経済状態があらわれる7〜8年ほど前から、突然のリストラで転職を余儀なくされた人や、転職したものの非正規にしか口を求められなかった人も数多い。世相のせいか、「神様に見放された」と自暴自棄になって、考えられないような大きな事件を起こす心を病んだ人も多く見受けられるようになった。「貧すれば鈍す」なのであろうか、せちがらい世の中である。
政権交代したから、という理由だけではない、なにか大きな転換点が、今日本に訪れている。それは日本人そのものが、新しい時代に足を踏み入れているからのように思える。それは、これまでの義理人情の土俗的な発想からの脱却と考えてもいいかもしれない。
いずれにしても、5年前、10年前から職場が変わった人が珍しくない世相になった中、書道の世界は、旧態依然。グループ間での人材の交流も少なく、移籍もほとんどない昔ながらの世界だ。
伝統的な師弟関係を基本とするたとえば歌舞伎や文楽、能に狂言、落語や漫才などの演芸や、相撲を含む武道の世界も、基本的に入門すれば師匠をかえることはまずなく、ひとりの師匠に弟子入りするということは、その日から擬似的な親子になるというのが、これらの世界の約束事。
一門の中では、兄と弟、姉と妹、さらには兄の弟子と弟の弟子、など非常に複雑で入り組んだ人間関係が出来上がっていく。一日でも古い方が兄、であっても、兄の一番弟子は弟より偉かったりすることもあって、ややこしい。世襲の問題や一代で地位を得た人物をどう位置づけるのかという問題もわき上がってくる。
書に限らず、芸術や芸能の世界での師弟関係は、本当の親子以上に濃密であるかもしれない。「やめる」という選択肢はあっても、師匠を離れて別の師匠につくことはかなりの勇気のいる行為。しかも、その一門を離れたからといって、昨日までの親である師匠を親と思わなくてよいのか、兄弟子を兄と思わなくてよいのか、というとそう簡単にはいかないようだ。
一人の師匠が亡くなり、その弟子たちが、あらたな師匠につくこともあるが、ほとんどが同門の中。破門に近い形で転籍を余儀なくされる人もなくはないが、ふらっと、次はあの先生に習いに行こうかな、というのは、初級のカルチャーセンターレベルまでしかありえない。
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