日本経済新聞に連載されているサッカーの三浦知良選手の「サッカー人として」というコラムの2009年9月4日掲載「トップ選手、日本の誇り」を読んだ。
要旨は、(1)日本とヨーロッパでは、文化の違いがとても大きい。(2)サッカークラブ間での選手の移籍は欧州では完全にビジネスである。(3)プロ選手がお金のことで遠慮することやチームを去ることに申し訳なく思うことは世界的に見てほとんどなく、日本は特殊である。(4)ビッグクラブがお金の力で選手を集めることは、むしろ夢のあること。そして、(5)日本人は、海外に出た日本人の超一流のプレーヤーの活躍を心配するのではなく、誇りに思うべきだ。
よくわかる例を引いての文章で一読で納得する。ぼくは門外漢であるが、日本のクラブも、もっというと日本という国そのものが、ヨーロッパのサッカークラブのようになるべきだと思うが、日本人特有のメンタリティー、浪花節や演歌の世界は、否定しつつも、われわれのDNAに組み込まれているようで、基本的には義理人情、情緒的。ゆえに今日本は、これら長い農耕民族、家父長制の因習から抜け出す途上にあるのではなかろうか。
書道界に限らず、移籍そのものをよしとしない文化、転向することをよしとしない文化、気分を変えることなく一筋であり、二君にまみえずという文化は、日本ではいまの時代にあっても尊重されているように思えるし、伝統文化や伝統芸能の世界ではまだまだ残っていくと考えていいと思う。が、事実上、もうそれは絵に描いた餅。土俗的農耕的日本は、徐々に薄れながら、ウエットな世界はドライな世界に様変わりしつつある。
もちろん、西洋とて、まったく義理人情や涙や情緒的な価値観がないはずはない。ヨーロッパ映画での人情も、われわれ日本人にも理解できるウエットさを持っている。すべてを数学的に割り切る合理主義になることが欧米のメンタルに追いつくということではないはずだ。
ただ、日本のさまざまな伝統的文化が、これから先、時代や日本人のメンタリティーの変化に伴って変容しなくてはならないのか、さらにいうと、浪花節や演歌の世界から脱出することが出来るのか。そのような試行錯誤が、新しい政権とともに問われてくる。むろん、書道界にも試されていることは間違いない。
2009年長月
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